【#7】遅ればせながら、この度『嫌われる勇気』を読みました。
この本は終始、ひねくれた青年とアドラー心理学に精通する老人=哲人との対話形式で話が進んでいく。
青年は時に感情的に、時には読者の気持ちを代弁しながら、興味深いアドラー心理学の概略を、在野の哲学者である「哲人」から聞き出していく。
なぜ読もうと思ったのか
僕はこの四月から、社会人になる。これまでの人間関係とは違う環境に飛び込むことになる。職業柄、人に好かれないことを言わなければいけない時がきっとあるだろう。そんな未来が怖かった。
僕は嫌われることを望んでいるわけではない。むしろ嫌われたくないという思いが人並み以上に強いかもしれない。
だからこそ、このベストセラーを手に取り、今更ながら読んでみようと思ったのだ。
結果として、今このタイミングでも読んだことは大成功だった。少しずつであるが、目の前の世界が楽に見えた。
今後もこの関係の本を少しずつ読み進めて、実生活に取り入れることのできる考え方は取り入れていきたい。
何かが原因で今があるのではなく、目的に沿って今がある
引きこもりを例に考えてみる。原因論で考えると、現在引きこもっているのは幼少期の両親の離婚が原因だということができる。
しかし、目的論の視点で引きこもりを見てみると、家から一歩出て社会に出るのが怖いからその言い訳という目的のために引きこもりという選択をしている、ということになる。
アドラー心理学はトラウマの存在を明確に否定するのだ。
少し乱暴な気もするが、この目的論に沿って考えれば、未来の自分はこれまでの過去に関係なく選択できるということになる。人は自らが定めた目的に向かって動くものだ。
要は、人の行いはすべて過去によって決めつけられているのではなく、未来の目的によって決定されていると考えるのがアドラー心理学なのだ。
だが、人は変わりたいと思ってもなかなか変わることができない。そのために、人は無意識にできない理由、変われない理由をつくり出してしまうのだ。自分のライフスタイルを変えないという目的のために。
この本では、そんな状態を「幸せになる勇気がない」と表現している。
世の中の悩みはすべて対人関係の悩み
劣等感は主観的な思い込み
例えば、身長が155㎝の成人男性がいたとしよう。その人は自分が低身長なのをコンプレックスに思っていた。
しかし、ある時友人からの言葉で、自分の低身長は好ましいことなのだと気づいた。155㎝という身長は劣等性(事実として他の何かより劣っていたり欠けている)ではなかったのだ。
問題は、その人がその事実(ここでは低身長)に対してどのような意味付けをするかどうかなのだ。
その人が思い悩んでいたのは客観的な劣等性ではなく、主観的な劣等感だったのだ。つまり、その劣等感は事実に対して自らが行う解釈の問題である。解釈の問題ということは自分の手で選択することもできる。
人間は誰でも優越性を追及している
人は誰でも、「もっと向上したい」という普遍的な欲求を持っている。そして、理想的な自分に比べて、到達できていない自分に対して、劣っているという感覚を抱く。これが劣等感だ。
劣等感も優越性の追求もアドラーによれば健全なものだ。ただ、その劣等感が「どうせ自分何もできない」というように、何かをしない言い訳に発展したら、それは劣等感ではなく劣等コンプレックスと呼ぶのだという。
優越性の追求は誰もが持っている。ただ、ここで気を付けなければいないのは、優越性は「自らの足を一歩前に踏み出す意思であって」、他者より上を目指そうとするものではないのだ。
健全な劣等感は他者との比較からくるものではなく、理想の自分との比較から生まれるものだ。
※反対に、「すべての幸せも対人関係」ということもできる。このことは、『幸せになる勇気』に書かれている。
他者のために生きるな
承認欲求に対するアドラーの立場
人から認められたい。そんな欲求、承認欲求は人間なら誰しもが持っている普遍的な欲求だと思うだろう。
だが、アドラー心理学では承認欲求を否定するのだ。他者の価値観にあうように行動するというのは、無意識に他者のために生きるということになる。他者の人生を生きるということなのだ。
これには賞罰教育が影響していると本には書かれていたが、そのことはまた別の機会、おそらく『幸せになる勇気』の読書録に書くことになるだろう。
だからまずは、自分が他者に合わせて生きることをやめる必要がある。そして、自分が他者のために生きないのと同じで、他者も自分のためには生きていないということも理解しなければいけない。
課題を分離する
相手に自分の課題に介入させない、また自分も他者の課題に介入しないために、課題の分離が必要になる。あらゆる対人関係のトラブルとは、他者の課題に土足で踏み入ることなのだそうだ。
だから、「これは誰の課題なのか(=その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か)」を基準に、自分の課題と他者の課題を分離して考えなければならない。結局、自分を変えられるのは自分だけなのだ。
何かたくさんの課題に押しつぶされそうなときには、自分の手で何とか出来るものなのかを考えると案外事態は軽かったりする。自分の課題にだけ向き合うようにすれば、世界はうんと軽くなるということだ。
対等な共同体感覚で世の中を考える
自分は世界の中心ではない
自分の人生の主人公は言うまでもなく私である。それは間違いない。だが、自分が世界の中心ではない。
自分は常に世界の一員である。その他大勢なのだ。だから、他者が自分に何をもたらしてくれるのかを期待するよりも、自分がその人に、世界に対して何ができるかを前提に考えなければいけない。
人間に必要なのは、他者から認められたという喜びよりも、自分が何かに貢献したときに得られる貢献感だ。仕事の本質も他者に貢献することである。
叱ってもいけないし褒めてもいけない
叱るという行為も褒めるという行為も、そこには縦の、上下の関係が前提とされている。アドラーはあらゆる対人関係を横の関係にすることを提唱している。
そこにあるのは他者に対する、評価ではない。尊敬。ただこれのみである。
僕はこの本を読んでから、褒めるというよりも承認の言葉を言えるようになりたいと強く思った。「ありがとう」という感謝の言葉もそのうちに入るだろう。
この本を読んで
本を読んでいる間は、平易な言葉でアドラーの思想がどんどん理解できる。ような気がする。
だが、このようにアウトプットしようとすると、かなり難しいことだとわかる。これは何度も読み直して、自分の中に落とし込みたいと思った。もちろんすべてを素直に飲み込んだわけではない。ただ、かなり自分の考えに近かったのだ。
以前、セミナーで「教育とは馬と水辺の話に例えると、馬を水辺に連れて行き、時には無理やり水を飲ませなければいけない、大変な重労働だ。」という話を聞いた。
それを聞いて、とてつもない違和感を感じた。「コーチ」の語源から考えても、僕の感覚とは合わない話だった。
自分のことは自分で決める。「与えられたものを選択していくのは自分なんだ」という考えは今後も大切にしていきたい。
今後は他の本も読みつつ、アドラーに関する本は読み続けようと思う。とりあえず今は、シリーズ第二作の『幸せになる勇気』を読んでいるので、それも読み終わったら拙くてもこのようにアウトプットしようと思う。
『幸せになる勇気』はより教育に関係する話が出てくるので、教育に携わる人にはお勧めだ。
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