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【#65】真辺将之「大隈重信-民意と統治の相克」

大学2年生の時に読んだ本。担当教授の著書で、全員が教科書として購入。

必死に字数に到達すべく書いたレポートがUSBから発掘されたのでここにさらしておこう。

大隈重信は日本史上初の政党内閣である第一次大隈重信内閣、通称「隈板内閣」を組閣したが、明治40年(1907)、不本意にも憲政本党の総理を引退し一度政界を退いている。ここから7年後の大正3年(1914)、大隈は第二次内閣を組閣し政界に復帰することになる。大隈重信の生涯において、明治43年(1910)という年は、この「政界引退」と「政界復帰」の間の期間の一部ということになる。
 明治43年、大隈重信は『国民読本』という書物を刊行している。報知新聞は3月6日の記事で、同年3月5日、大隈邸にて国民読本出版披露会が行われたことを報じている。
この『国民読本』は大隈が自信をもって編纂した『開国五十年史』を読みやすく記述しなおし、義務教育を終えた青年男女に向けて刊行したものである。大隈がこの『国民読本』を大切にしているということは、さらなる改良版である『国民小読本』や改訂版『国民読本』(いずれも1913刊行)の刊行にも見て取れる。
同年4月には、大隈は日本女子大学の卒業式に出席している。大隈はこの場で女子教育について言及している。報知新聞4月12日の記事では、大隈がこの日本女子大学の卒業式において、「日本特有の家族主義と欧米特有の個人主義の長所と短所を精査して理想的な家庭を生み出すべきである」と述べていることなどがわかる。このように、女子教育に対しても独自のしっかりとした考えを持っており、またそれを公の場で発表している。
大隈はこの時期、このような講演のような活動を日本各地で頻繁に行っている。それらの講演活動は3月に刊行された『国民読本』の宣伝を兼ねている。大隈は全国をまわりながら『国民読本』の宣伝をしていたと考えられる。報知新聞6月26日の記事にも「国民教育の必要」という見出しで25日の講演活動のことが取り上げられている。『国民読本』の刊行の目的は「国民を教育すること」なので、大隈は『国民読本』を熱心に宣伝する必要があった。
 大隈は「どうせ無邪気の国民は政治上の思想は乏しいものである、どうしても指導者が之を教育し指導して立憲的国民を拵へなければ真の立憲政治は行われないのである」と国民の政治的意識の欠如を批判的に述べていた。(『大隈重信』真辺将之)
このような危機感から大隈は国民教育が必要だと強く感じていたのだと考えられる。
大隈はこれらの活動を総称して「文明運動」としていた。明治43年前後の大隈はこうした「文明活動」と呼ばれる文化的活動に力を入れていたということが報知新聞の報道から読み取れる。
当該期の大隈は「文明活動」以外にも、様々な活動をしている。明治43年2月5日の報知新聞に「大隈伯の演説(進歩党招待会席上)」という見出しの記事がある。この記事の内容は「政治は人民の生活を豊かにすることがかなめであるのに、今の政治家は私益のために多くの人の幸福を虐げている。西園寺公望も桂太郎も国民に過重の負担を負わせる政策を打ち出し、遺憾に感じる。現在近代国家のうちに日本のごとく国際償却に多額の金を費やしている国はない。予算の先議権のある諸君の賢明な判断を願う。」といった内容のことが書かれている。大隈はここから見てわかる通り、政界を退いてもなお、政治に気を配り、批判的な態度でいることがわかる。
さらに、大隈は国外情勢にも目を向けている。報知新聞7月14日に第二次日露協約についての論評が発表されている。ここでは大隈が日露協約を前向きにとらえていることがわかる。さらにそれだけでなく、満州権益や日露関係の日本近辺やアジアにとどまらず、ヨーロッパなども含めた広い視点からの評価であったことがうかがえる。
政界から退いて間もない明治43年、このように大隈は政界から退いても様々な方面に活躍し、人気を博した。大正3年(1914)、大隈はふとした成り行きで再び総理大臣に就任する。その前年、第三次桂太郎内閣が第一次護憲運動ののちに倒れ、その次の山本権平内閣も海軍の贈収賄事件がきっかけで退いた。桂太郎は長州出身、山本権兵衛は薩摩出身であったことから、元老はまたも薩長閥から首相を出すわけにはいかないであろうということで、当時、国民からの人気を集めていた大隈重信をえらんだ。このように、第二次大隈内閣成立の理由の一つとして、政界から退いていた期間に得た国民からの支持をあげられるとすれば、この明治43年と、その前後の期間の大隈の「文明運動」と呼ばれる活動は、大隈の生涯において非常に大きな意味を持っているといえる。また、第二次大隈内閣が第一次世界大戦という非常に大きな問題の期間を担ったことを考えると、日本の歴史という広い視点で見ても明治43年とその前後の年は非常に意義のある期間であったといえる。


大学2年春のレポート


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