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縄文を愛し、戦争を嫌った芸術家

家の前の通りではイチョウ並木が色づき始めました。
夏の青々とした緑から色が抜け、黄色に変わりつつある葉の色は、窓から見える景色を暖色に染め上げようとしています。
ふと見上げれば澄んだ空気が映し出す水色の空。
丸みを帯びた日の光が心地よく、乾いた風が部屋を通り抜けると、リビングにほのかな金木犀の香りを残していきます。

秋の訪れを日々体感する今日この頃。活動的だった夏とは打って変わり、眠気と食欲に襲われるこの季節。
人の欲求は暑さによって放出されたエネルギーの補給に向けられます。
灼熱の太陽をその実に宿した秋の実りは見た目も香りも麗しく、食卓に並ぶその姿、ついつい箸がのびてしまいます。
外気温も落ち着いて少し肌寒いくらいの宵の口。夜半過ぎともなればブランケットにくるまれてすでに意識は夢の中。寝苦しさから解放された秋の夜長は、起きてみればもう朝かとベッドから出ることにためらいを覚えます。

環境の変化により様変わりする感覚。僕たちの身体は季節に合わせてその嗜好を変えていくのです。やがて季節に順応した感覚は新たに別の欲を引き寄せます。

毎年、猛暑が遠く身を潜めた頃合いを見計らうようにして、僕の身体は芸術を求めるようにできています。

以前記事にしたゴーギャンもそうですが、僕はプリミティブな感性を持つ画家に惹かれます。悠久の昔から時代を超えたインスピレーションを受け、その着想を起点に作品を生み出す芸術家に強い共感を覚えるのです。
芸術とはすべからく原初の記憶に基づくものだとも言えますが、そういった人類の心の根底にあるイメージが如実に現れている作品を僕は特に好みます。

最近、このnoteでは縄文についてばかり書いていました。そしてある時ふと、記事を書きながら思い出したのです。そういえば縄文に多大な影響を受けた芸術家が、かつてこの島にいたことを。
僕は幼い頃からその芸術家を知っていました。テレビによく出ていたからです。
とても有名な人物なのでご存知の方も多いでしょう。

岡本太郎は1911年、川崎に生まれます。幼い頃から絵が好きで、盛んに描く少年でした。18歳で東京美術学校に入学しますが、やがて父の仕事の都合で渡欧します。その際家族で訪れたパリに太郎は約10年間住むことになり、そこで絵画と民俗学を学びます。
しかし時代は戦争に向かっていました。1940年、ドイツ軍のパリ侵攻により太郎は帰国を決意します。そして31歳のときに徴兵され、中国戦線へ出征します。
この時の戦争体験を「私の人生で、もっとも残酷に、辛かった時代」と太郎は後述しています。本人が語るように第二次世界大戦という歴史に残る悲劇は、のちの創作活動に大きな影響を与えます。
やがて1945年の日本敗戦後、太郎は中国の長安で半年間の捕虜生活を送り、その後日本へ帰国します。

今でこそ有名な縄文の火焔型土器ですが、つい50年ほど前までは、単なる考古学上の遺物でした。この火焔型土器に美を見出し、それまで工芸品としてとらえられていた土器を美術品に昇華させたのが岡本太郎なのです。
太郎は火焔型土器に見られる「アシンメトリー」や「不調和のバランス」に、自然界における力の躍動と完璧な均衡を感じとりました。
激しくうごめきながら、全体として無駄のないバランスを保っている自然界の秩序。土器の意匠には自然を敬い、ある時は畏れ、そして溶け合いながら生きた縄文人たちの精神が深く刻印されていると考えたのです。
原始のたくましさと豊かさ、ふつふつとたぎる生命力。それまでの美術界で評価されてきたわびさび型のおとなしい日本の伝統美とは真逆の美意識を火焔型土器に見出した太郎は、これこそが「オリジナルの日本」であり「失われてしまった日本」なのだと直観します。
考古学上の遺物であった火焔型土器を美術界に引っ張り出し、それまで弥生式土器が起点となっていた日本美術史の源流に位置付けた岡本太郎。旧来の弥生土器や埴輪を始まりとする日本芸術の伝統は、彼によって見事に覆されました。

太郎が美を見出したのはなにも土器に限ったことではありません。彼はさまざまな縄文の造形物から溢れ出る生命エネルギーに注目し、その芸術性を自らの作品に落とし込みました。

1970年、大阪で日本初となる万国博覧会が開催されます。その5年前、岡本太郎は「万博の心臓部」ともいえるテーマ館の展示プロデューサーに任命されます。
そして彼はテーマ館のメインゲート前に巨大な建造物を立てました。

太陽の塔 岡本太郎 1970
wikipediaより引用

みなさんご存知「太陽の塔」ですね。
太郎自身、この塔を「原始と現代を直結させたような、ベラボーな神像」と呼びました。
万博終了後、他の建物はすべて撤去されましたが、この塔だけは現在も残っています。
太郎はこの塔の製作にあたり、縄文文化におけるさまざまな造形物をモチーフにしたと言われています。

ハート型土偶 群馬県吾妻郡東吾妻町郷原出土 
wikipediaより引用

ご覧の通り、たしかに太陽の塔は群馬県出土のハート型土偶にそっくりですね。
このように岡本太郎の芸術性を語る上で、縄文文化を無視することはできません。
彼は縄文のある種呪物的な装飾が施された造形に心を湧き立たせ、そこに自分のルーツを発見しました。そしてこの島の伝統の根幹には縄文が深く根付いていると確信し、自分の作品に取り入れたのです。

この太陽の塔の制作と時を同じくして、太郎は別の作品製作に取り掛かかります。当時メキシコで建設中だったホテルのロビーに飾られる絵画の発注を受けたのです。結果的にその作品は「太陽の塔」と対をなす太郎の代表作となりました。

特定非営利活動法人 明日の神話保全継承機構より引用

完成当時、この絵画には「広島と長崎」という副題が添えられました。
副題からも分かる通り、この絵画のモチーフは「原爆」です。
原爆が投下され地上で炸裂する、まさにその瞬間を描いています。
そして何よりも重要なのがこの作品のタイトルです。
世界の中で唯一原爆を落とされた国、日本。
その国に生まれ、戦争を経験した岡本太郎は、原爆が炸裂する瞬間を描いたこの作品を「明日の神話」と呼びました。

太郎は生前こんな言葉を残しています。

「強烈に生きることは常に死を前提にしている。死という最もきびしい運命と直面して、はじめていのちが奮い立つのだ」 

人は残酷な運命の中で死を意識します。しかしそこで初めて生の躍動をこの身におぼえるのです。生命を奮い立たせ、悲劇を乗り越えようと躍起になって行動します。
必死になって動き回り、やがて悲劇を乗り越えた先、そこから明日の神話が生まれるのだ。
太郎はそう信じました。

僕たちは世界で唯一の戦争被爆国の住人です。
しかもそれは遠い過去の記憶ではなく、
たった78年前の出来事です。
この島は原爆の被害を受けながら、その悲劇を乗り越え、見事復興を遂げました。
つまりこの島は戦争の悲劇を過去に経験しているのです。
痛みを知る者にしか見えない光。
「明日の神話」に描かれる閃光は、その輝きを放っています。

ロシアとウクライナの対立は終わりが見えず、中東では新たな火種が勃発しました。
21世紀になった今、世界は再び分断の道を歩もうとしています。

「同じ記憶が繰り返されるかもしれない現代で、明日の神話を紡ぎ出せるのは、過去の惨劇を経験したこの島の住人しかいないのだ」

混迷の現代に「明日の神話」を眺めていると、岡本太郎が僕たちに、そう訴えかけているような気がしてなりません。

個人的に僕は、今この瞬間、新たな神話が形成されつつあると考えています。数多の神話に綴られた世界が一変する物語。それがまさに今、現在進行形で進んでいると感じるのです。
岡本太郎が芸術人生の集大成として描いた
「明日の神話」
その神話を紡ぐ時は今を置いて他にないと、そう思えてなりません。

もちろん、物語の舞台となるのはこの島です。

日出るこの島に継承される八百万の神々は、かつて人類がこの地に集い、共存していた証。そのかけがえのない記憶と言っていいでしょう。
つまり現代人が忘れてしまった人類の遠い過去の思い出を、この島は保存している場所なのです。
僕たちがいかにして命を繋いできたか、そして争いの歴史が始まる前、武器が作られる以前、人々が自然を分け合い、共に暮らした輝かしい時代をこの島は覚えているのです。

悲惨な戦争を経験し、以後反戦を強く主張し続けた岡本太郎。彼が縄文芸術に傾倒したのは、そこに争いの痕跡が全く見られなかったからかもしれません。
争い合う前、共存していた頃の人類の面影。太郎が縄文に見た景色とは、その頃の風景だったのではないでしょうか。

「明日の神話」には人々を焼き尽くす原爆の光と、この島に宿された縄文の記憶が発露した希望の光、その両方が描かれます。岡本太郎が強調したのは、おそらく後者の光。
近代文明の行き着く先が起こした過ちを経験した画家は、それゆえ争いのなかったこの島の源流に傾倒していったのですから。

縄文の精神はこの島に生まれた20世紀の画家に多大な影響を与え、その画家の残した作品は混沌とする世界情勢に翻弄される現代において、非常に大きな意義を持つことになるでしょう。

歴史が大きく変わろうとする神話の時代。それはまさしく今なのです。
これから始まる「明日の神話」をいかような物語に紡いでいくべきなのか。
この島に暮らす人々は世界中から問われています。

芸術とは遺伝子に眠る記憶と現実世界をつなぐもの。
混迷を極めるこの刹那、今年の秋は過去稀に見る芸術の秋となるでしょう。


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