ピリピ人への手紙 第3章
ピリピ人への手紙 3章1〜3節
ユダヤ主義者との戦い
1節bの「主にあって喜びなさい。」という1文は、そのすぐ後の「さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが〜〜」以下とは切り離して、考えたほうがいいと思います。
「さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩わしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。」というのは、言うまでもなく、2節以降のユダヤ主義キリスト者に気をつけることを指し示しています。
ユダヤ主義者というのは、
以前にお話ししましたように、
ユダヤ教からキリスト教に改宗した人たちのことですが、
彼らは、キリスト教に入信しても、
割礼を受けていることを誇りとし、
そればかりか、
異邦人にも割礼を受けることを強要していたようです。
パウロは2節でも、ユダヤ主義者たちのことを「あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。 」と再三にわたって、注意喚起をしています。
そして、パウロは、3節で、真の割礼というのは、肉体に傷をつけることでも、また肉(人間的なもの)を誇ることでもなく、聖霊によって行われ、キリストを誇るものであると主張しています。
ピリピ人への手紙 3章4〜9節
パウロにとっての古い自分
パウロはここで珍しく自分の出自を語り、またクリスチャンになる前に自慢し、自分が頼りにしてきたものを語っています。
1.自分は生後8日目に割礼を受けた。
▶これは自分の意志でできるものではなく、父母が厳格なユダヤ教徒であったということを示しています。つまり、パウロは厳格なユダヤ教徒の両親のもとで育てられたということです。
また、異邦人ユダヤ教徒のように、成人してから、割礼を受けたわけではなく、生粋のユダヤ人であったということです。
俗に言う "血統書付き" のようなものです。
2.イスラエル人・ベニヤミン族・ヘブル人。
▶これも自分の意志でなれるものではありません。
ここでは、家柄や血統を述べていますが、自分は由緒正しい家系に生れたということ、自分の血統を、イスラエルの12部族の一つ、ベニヤミン族までさかのぼって示しています。
神様に特別に選ばれた民の一員であるという選民思想がここに伺えます。
3.律法の上ではパリサイ人・ 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
▶これは、自分の意志で行っていたことです。パウロは律法を完璧と言えるぐらいに、落ち度なく厳格にに守ってきました。
パリサイというのは、元来は「分離する」という意味がありました。つまり、自分たちは律法を守らない(あるいは守れない)人たちとは違うんだというエリート意識があったのです。
それだけで、優越感に浸ることができたのです。
また、パウロは熱狂的というぐらいに、熱心に宗教活動を行い、キリスト教徒は神を冒涜する宗教だと信じて迫害してきたのです。
それが神様に仕える道であり、そうすれば、神様に喜んでいただけると信じて、パウロは熱心に迫害をしていたのです。
クリスチャンになる前のパウロは、これらのことを頼りにしていたのです。
自慢というよりは、神様に義と認められ、なおかつ神様に喜んでいただけると信じて、これらのことに依り頼んでいたのです。パウロはそれだけ生真面目なユダヤ教徒だったのです。
それらは無価値であった
しかし、パウロは神様の一方的な恵み(選び)によって、クリスチャンになりました。それによって、パウロの考え方や生き方が180度 変わったのです。
そして、パウロがかつて自慢していた自分の出自も、熱心に励んできた律法順守やユダヤ教徒としての活動も、すべては意味のない無駄なもの、いやむしろ邪魔になるものであったのです。
それらのものは、自己満足と名誉欲を満たすだけで、救いは得られないのです。神様に義とされることも、ましてや神様に喜ばれることもないのです。また、他人に益をもたらさないのです。
パウロがかつて自慢していたもの、依り頼んでいたもの、それらすべてのものが完璧に揃っていても、キリストの救いの素晴らしさに比べたら、大したことはないのです。
それらのものは、キリストによる救いと相反するがゆえに、かえって、キリストの救いにあずかるのを妨げます。邪魔になるのです。
私たちはどうでしょうか?
行いによって、神様に喜ばれようという思いが少しはあるのではないかと思います。
時には、礼拝やお祈りでさえも、律法的に守らなければならないから守る。そういうこともあるかもしれません。
しかし、私たちは、行いによって、神様に愛され、神様に喜ばれるわけではないのです。
むしろ逆です。
イエス様を信じる信仰によって神様の御前に義とされ、神様に受け入れられ、愛されているのです。
行いは、祈りも礼拝も、そこから出てくるのなのです。
パウロが得たもの
9節で、パウロは自分が得たもの――すなわち自分がどれだけ熱心に励んでも得られなかったもの――は何かということを端的に話しています。
それは、
「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受け」たということです。
それは、割礼を受けたり、律法を行ったりすることによってではなく、
イエス様が十字架の上で、私の罪を背負って私の身代わりになって死んでくださったことによって、私の罪をあがなってくださったということ。
そのことをただ単純に信じれば、罪ゆるされて、神様の御前で義とされる。神様に受け入れられて、神の子としていただける。
パウロはそのことを発見したのです。
伝道のヒント?
この段落(3章4〜11節)で、パウロはまず自分の出自を語り、
それから律法を守れば救いが得られると信じて、律法の行いに励んだことを語り、
最後にキリストに出会って、行いによらず信仰による救いを得たことを語っています。
この順序は、証しをしたり、伝道をしたりする時にも参考になるのではないでしょうか?
ピリピ人への手紙 3章10〜16節
天国を目指して
前の段落では、パウロは自分の過去のことと現在のことを語っていましたが、
ここでは未来のことを語っています。
しかも、パウロ自身の未来のことだけではなく、すべてのクリスチャンたちに共通の未来のことについて語っています。
それは11節の「なんとかして死人のうちからの復活に達したい」ということです。
これは、パウロにとって、のみならず、すべてのクリスチャンたちにとっての《最終目標》であり《最終目的地》でもあるのです。
イエス様が与えてくださる恵みの中でも、パウロは特に復活に目を向けていました。
ここでいう復活というのは、キリストの再臨の時に死んだ身体がよみがえること。永遠の生命と永遠に滅びることのない身体をいただいて、キリストや愛する人たちと共に永遠に幸せに生きていくということです。
このことに関して、パウロは、第一テサロニケで以下のように語っています。
テサロニケ人への第一の手紙 4:14 口語訳
[14] わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
また使徒信条にも「身体のよみがえり(を信ず)」と記してあります。
イエス様を信じて義とされた。洗礼を受けて神の子とされた。
でも、それで終わりではないのです。
パウロがここで強調しているのは、
クリスチャンには、天国という最終目標(目的地)があり、
そこに至る道筋(歩み)があるということです。
マラソンランナーのように
12節でパウロは
「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」
と言っています。
ここでパウロは不思議なことを言っています。
一言で言えば、
「自分はキリストに捕らえられた。
しかし、自分はまだキリストを捕らえていない。」
ということです。
この言葉を理解するために、筆者も色々と言い換えてみました。
「後ろからキリストにバックハグで捕まえられたけれど、自分はまだキリストを捕まえていない情景。」(苦笑)
それはともかくとして、
「自分はキリストに十分に(完全に)愛されているけれども、
自分はまだキリストを十分に愛していない。もっとキリストを愛していけるように努力していくことが必要だ。」
というように言い換えてみました。
また、
キリストのことが、御言葉が、あるいは教理が、真理が分かったと思っても、それはごく一部分に過ぎず、まだまだ分かっていないことがたくさんある。
分かったと思っても、キリストを捕まえたと思っても、それはごく一部分に過ぎず、もっと努力して、もっとキリストのことを――知識的にも、実践的にも――知らなければいけない。
以上は筆者が考えてみたことですが、パウロは13〜14節で、マラソンランナーにたとえています。
「[13] 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 [14] 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。」
キリストを信じて義とされた、神の子とされた。
でも、それで終わりではなく、クリスチャンには、天国(身体の復活)という最終目標(目的地)があるということを先ほど申しました。
しかし、だからといって、後はただ待っていればいいというのではないのです。
マラソンランナーは、完走すること、もっと言えば、優勝することを目指して、走っています。
クリスチャンの信仰生活も、それと同じで、天国(身体の復活)というゴールがあり、そのゴールを目指して、走っていく(歩んでいく)のです。
ここで大切なことは、
1.後ろのものを忘れる
過去のこと、犯してしまった罪も失敗もイエス様の十字架によってゆるされているのだから、いつまでも気にしないで忘れる。
また過去の功績にもとらわれない。
2.前のものに向かって身体を伸ばす。
目的地に向かって、これからどうすればいいのかを考え、自分が歩む道を見つける。
3.目標を目指して走る
=実践する。始める。
もちろん途中でリタイアしないように走り続けることも大事です。
しかし、そのことを考えると、ものすごくしんどくなってきます。
本当に大丈夫かなぁと心配になってきます。
でも、心配は要りません。
なせなら、パウロがすでに言っているように、
私たちはすでにキリストに捕らえられているからです。
イエス様が私のことをしっかりと捕まえていてくださる。
どんなことがあっても、決して私のことを見捨てたりはなさらないのです。
以前に『足跡』という詩を紹介しましたが、
イエス様はいつも私のそばにいて、私と共に歩んでくださいます。
そして、もし私が自分の足で歩けなくなったときには、私を背負ってでも、イエス様が私を天国まで連れて行ってくださるのです。
得たものを大切にして
最後に16節で、パウロは「ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」
と言っています。
それは、自分が今までに得た神様の恵み、体験したこと、聖書の知識や教え、それらを大切にして、生かしていくというのとです。
適切なたとえかどうか分かりませんが、モーツァルトが弾けるようになった人が、バイエルを一からやり直すことは、よほどのことがない限りしません。
むしろ、モーツァルトがもっと素晴らしく弾けるように、あるいは、ショパンやリストなど、まだ弾けない曲が弾けるように、日々鍛錬して、練習していくのではないでしょうか。
それと同じように、
すでに神様が私たちに与えてくださった恵みの数々、時には試練や失敗を乗り越えることによって体験した(知った)神様の恵みや真理、それらをこれからの信仰生活の歩みに生かして、励んで参りましょう。
ピリピ人への手紙 3章17〜21節
お手本が大切
パウロは、17節で「どうか、わたしにならう者となってほしい。」と言っています。
ここでパウロは、上から目線で、私をお手本にしなさいと、偉そうに言っているわけではありません。
当時は、後述するように、異端の信仰を持っている人たちに騙されたり、惑わされたりして、間違った道を行ってしまう人が多かったのです。
ですから、騙されて、間違った道に行かないように、
パウロは、自分と一緒に天国という正しい目標に向かって、正しい道を歩んで行きましょうと勧めています。
ある牧師先生は、
「私たちが見倣うのは、キリストに従って歩んでいる人です。それ以外の魅力的な人ではありません。」と言っておられます。
この世の中にも、
魅力的で心が惹かれる人はたくさんいます。新興宗教の教祖にも、そういう人は多いです。
でも、次の18節に書いてありますように、キリストに、特に十字架に敵対して歩んでいる人を見習うべきではありません。
「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」 (サムエル第一16:7)
という聖句にあるように、
見た目の魅力に惹かれて、付いて行ってはいけないのです。
十字架に敵対する人たち
18節で、パウロは「キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。」と言っています。
十字架に敵対している人というのが、
どういう人のことなのかということに関しては、2説あるようです。
1.前に述べたユダヤ主義者(律法主義者)・・蓮見和男説
ただし、この説は19節の「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のこと」に照らしてみて合わないように思います。
ユダヤ主義者(律法主義者)というのは、律法をしっかりと守って、厳格な生活をする傾向があります。
確かに、優越感に浸ったり、エリート意識を持ったりすることはあるでしょうが、19節に書いてあるように、
「腹(=たらふく食べること?)」が《神(=最優先事項)》になったり、
恥ずべきことが栄光であったり、
そのようなことは律法主義者とは合わないと思います。
2.グノーシス主義者(NTD)
グノーシス主義というのは、
魂や霊は善で、肉体は悪であるという善悪二元論的な考えです。
この考え方を悪用すると、
肉体が悪を行っても(例えば、性的不品行や麻薬、過度な飲食など)、魂には何の悪影響は及ぼさないのだから、不品行を行っても かまわないということになってしまいます。
十字架に敵対する者というのは、
ユダヤ主義者(律法主義者)のことなのか?
それとも、グノーシス主義者のことなのか?
それを判別するためには、前後関係(文脈)を考える必要があります。
まず、19節の「彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のこと」に照らしてみます。
また後述する21節に照らし合わせてみても、
十字架に敵対して歩んでいる者というのは、グノーシス主義者を指すと考えたほうがいいと思います。
しかし、大切なことは、どちらであろうとも、キリストに、そして何よりも、キリストの十字架に敵対する道を選ばない、そういう人に付いて行かないということです。
また、一見、魅力的に感じる教えや、魅力的に感じる人に気をつけたほうがいいと思います。
国籍は天にあり
「彼らの思いは地上のことである。 しかし、わたしたちの国籍は天にある」(19節b〜20節a)
キリストの十字架に敵対して歩んでいる人たちの共通点は、
目標を完全に見誤っているということです。
すなわち、敵対者たちは地上での生活ことばかりを考えているのに対し、
キリストの十字架の道を歩んでいる人たちは、天国を見据えています。
敵対者たちが追い求めていた地上での生活というのは、お金や欲望であったり、地位や名声であったりします。
しかし、それらのものを追い求めても、生きている間だけです。死んだらそれまでで終わりです。
それに対して、
キリストの十字架の道を歩んでいる人たちは、天国を見据えていますから、死んだらそれで終わりではないのです。いや、むしろ死後のことが一番大切なのです。
ハンガリー出身の大ピアニストであり、大作曲家であるフランツ・リストは『前奏曲(レ・プレリュード)』という曲を作曲しました。
これは、この世の中での人間の人生は、死後の生活の《前奏》に過ぎないというキリスト教思想から来ています。
(ちなみに、リストはカトリック教徒であり、54歳で僧職に入りました。)
さて、20節で、パウロは国籍は天にあると言っています。
つまり私たちクリスチャンは、天国の国民として、この地上では寄留者(在留外国人)のように歩んでいるのです。そして教会は天国の大使館です。
そして、やがて私たちは天国という本国に帰って行くのです。
再臨と栄化
そして20節後半から21節のところで、パウロは神様の霊感(あるいは聖霊)に導かれて、やがて確実に起こる未来のことを語っています。
「[20b]そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 [21] 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。
1.やがてイエス・キリストが来られるのを(再臨を)待ち望んでいる。
(再臨待望。使徒信条では「そこから来られて〜」)
やがてイエス・キリストが再び地上に来られます。再臨と言います。
再臨については、福音書(マタイ24章など)やパウロの他の手紙(Ⅰテサロニケ4章など)に記されています。
大切なことは、その時にどのようなことが起こるかということです。
2.わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さる
(これを栄化と言います。使徒信条では「身体のよみがえり(を信ず)」)
この記述は、肉体を悪として蔑視していたグノーシス主義者たちへの対抗であろうと推察できます。
パウロは地上での私たち人間の肉体を「卑しいからだ」と言っています。
この件に関して、フリードリヒ(NTD)のコメントを参考にしますと、以下のようになります。
確かに、今の私たちの肉体は、罪の様々な誘惑にさらされ、キリストと私たちの魂との間に壁のように立ちはだかったり、病や老化と共に弱さを覚え、死を恐れたりします。
イエス様でさえも身体に弱さを覚えられ、死の恐怖とも戦われました。
しかし、身体に弱さを覚え、死と戦われたイエス様は、死して3日目によみがえられ、天に昇られ、神の右に座したまい、今や主として万物を統べ治めておられます。
キリストの十字架を信じ、キリストに属する私たちも、必ず、この復活のキリストと同じ変容の業を成し遂げてくださる。
私たちが肉体の弱さを覚えながら死んでいっても、神様はキリストの再臨の日に、キリストと同じように、私たちを復活させ、高く挙げてくださり、父なる神と御子キリストのそばに置いてくださるのです。
これこそが私たちの希望なのです。
決して裏切られることのない希望なのです。
私たちは、この希望の日を目指して、今は弱い身体を持っていますが、
弱い私たちと共にいて私たちを支えてくださる主イエス様の愛、私たちの弱いところを完全に守ってくださる神様の力を信じて、歩んで参りましょう。
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