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ピリピ人への手紙 第1章
ピリピ人への手紙 1章1節
ピリピ人への手紙 1章1節
キリスト・イエスの僕たち、パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
差出人
*手紙の差出人はパウロとテモテです。
そして、この2人の肩書は「キリスト・イエスのしもべ」となっています。
しもべと訳してありますが、doulosという単語は「奴隷」という意味。古代社会では普通に奴隷がいました。
しかし、現代の私たちも色々なものの奴隷になっています。言い換えれば、色々なものに縛られています。
卑近な例では、ゲームやSNSの奴隷になっている人が多く、社会問題になっています。
その他にも、お金の奴隷、欲望(ポルノなど)の奴隷、地位や名誉の奴隷などがあります。
そんな中にあって、パウロは自分はキリストの奴隷だと言っているのです。
キリストの奴隷、言い換えれば、キリストのみを主人として、キリストのみに仕えていくということです。
言い換えれば、キリストを良き羊飼いとして、キリストの羊として生きていくということです。
私なりに解釈を加えていきますと、
自分が主体となって、自分中心に生きていこうとすると、かなりしんどい思いをすることもあります。
進もうとしている道が正しいかどうかも自分で判断しなくてはいけません。
必要なものは全部自分で備えなければなりません。
しかし、キリストを主として生きていくなら、言い換えれば、良き羊飼いであるキリストに従って生きていくなら、主が私たちを正しい道に導き、憩いの場へと連れて行き、必要を満たしてくださるのです。またキリストのもとに重荷を降ろすこともできます(マタイ11:28)。
それがキリストのしもべであるということです。
受取人
ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。
1.聖徒たち
パウロはピリピ教会の信徒たちのことを「聖徒たち」と言っています。
これはピリピ教会の信徒たちが聖人君子の集まりであったと言っているわけではありません。
これには2つの意味があります。
a.一つは、蓮見氏が言っているように、聖別された、神様のために取っておかれたという意味です。
ピリピ教会の信徒たちは、いやピリピ教会だけでなく、現代のクリスチャンたちも、それぞれ自分が属している教会のために、取っておかれた存在だということです。
b.「聖なる」のもう一つの意味は、キリストの十字架の贖いによって、聖められたという意味もあるように思います。
2.「監督および執事たち」
ピリピ教会には、すでにきちんとした役職があったようです。
監督は御言葉と祈りの御用のために選ばれた。今でいう牧師の働きに当たります。
執事は信徒各自が必要なものに与れるように配慮するために選ばれました。
もちろん教会の頭(かしら)はキリストです。
そして頭(かしら)であるキリストが、監督や執事をキリストの手足として用いられて、教会に必要な手当てをしていかれるのです。
ですから、私たちは、キリストによって選ばれて、キリストの手足として働いている各個教会の牧師や役員、CS教師などの働きを尊重し、その働きのために祈っていくべきなのです。
ピリピ人への手紙 1章2節
ピリピ人への手紙 1:2 口語訳
[2] わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
恵み
ここでパウロは恵みと平安は父なる神様と救い主なるキリストから来ると言っています。
裏を返せば、恵みも平安も、神(キリスト)以外のものから来るものではないと言っています。
イエス様も「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。(ヨハネ 14:27)」と言っておられます。
この世のものによって与えられる恵みや平安とは全く異質なものなのです。
まず、恵みというのは、イエス・キリストによる救いの恵みに他なりません。そしてそれは、
1.天地万物が創造される前から神様が私たちを救われるようにと選んでいてくださったから(エペソ1:4)です。
2.神様は、何のいさおしもない私たちを救うために、イエス・キリストをお遣わしくださり、罪を贖うための供え物(いけにえ)としてくださいました。
私たちが救われたのは、私たちの善い行い(業)によらず、神様の救いの業によったのです。
私たちに必要なのは、そのことをただ単純に信じる信仰だけなのです。
平安
そして救いの恵みに与った私たちは、神様と和解(仲直り)することができ、それによって、神様は私たちの味方になったのです。
神様が私たちの味方になってくださったのだから、もう何も恐れることはなくなったのです。裁きも悪魔も、もう何も怖くはありません。それが、父なる神様と救い主キリストが与えてくださった平安なのです。
そして、ここでパウロは「(その)恵みと平安があなたがたにあるように」と言っています。
これは、ピリピ教会の信徒たちが、いつもこのような神様(キリスト)の恵みと平安に与り、自覚し、喜びに満たされているようにと願っているのです。
私たちはどうでしょうか?
このことがいつも心の中にないと不平不満で心の中がいっぱいになってしまいます。
私たちはこれほどまでの大きな恵みをいただいている、そして神様と仲直りし、神様が私たちの味方になっていてくださる、もう何も恐れることばない、そのことをいつも心に留めて生きて参りましょう。
ピリピ人への手紙 1章3〜5節
ピリピ人への手紙 1:3-5 口語訳
[3] わたしはあなたがたを思うたびごとに、わたしの神に感謝し、 [4] あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、 [5] あなたがたが最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっていることを感謝している。
パウロとピリピ教会の関係
この3つの節を理解するためには、いや、この書簡全体を理解するためにも、まずパウロとピリピ教会の関係について知っておく必要があります。
使徒行伝に基づいて説明いたします。時はAD50年前後のこと、パウロは第2回伝道旅行の途中、アジアでユダヤ人伝道をしようと試みますが、なぜかそれはうまくいきませんでした(使徒16:6〜8)。
そしてマケドニア人の幻を通して、パウロはヨーロッパで異邦人伝道をするように導かれ(同 9〜11節)、ヨーロッパ宣教に乗り出します。
その初陣の地がピリピだったのです。
そこでパウロは、河原で祈祷会をしていたルデヤたちと出会い(同 14節)、彼女がヨーロッパ最初の入信者となります。
その後、パウロは騒乱罪?をでっち上げられて獄に入れられますが(同 19〜23節)、そこで地震が起こり、それがきっかけで獄吏とその家族が入信します(31〜33節)。
しかし、パウロがローマの市民権を持っていることを知った警吏たちによって、パウロたちはピリピの町を追い出されることになるのです。
パウロの喜びと感謝
ピリピ書に戻りますが、
この手紙は、パウロがピリピを去ってから、約10年後ぐらいにローマで書かれたものと思われます。(エペソ説もありますが、パウロがエペソで投獄された事実は使徒行伝には出てこない)
もちろん10年間、パウロは何もしなかったわけではなく、第3回伝道旅行の折にも往復で立ち寄っています。その折に色々と指導したのではないかと思います。
1章1節に出てきた「監督」や「執事」などの役職もその時に設置された可能性もあります。
そしてこのピリピ人への手紙1章3〜4節で、パウロは、ピリピ教会の信徒たちのことを思う度に神様に感謝し、喜びをもって祈っていると言っています。
それはなぜかと言うと、5節に書いてありますように「あなたがた(ピリピ教会の信徒たち)が最初の日から今日に至るまで、福音にあずかっている」からなのです。
当時はキリスト教はまだ生れたばかりで、無理解から来る迫害も多かったと思います。しかし、ピリピ教会の信徒たちは、迫害があっても、迫害にめげないで、福音に与り、信仰を持ち続けていたというのです。
現代の私たちも無理解から来る迫害もあるかもしれませんが、それ以外でも、仕事や結婚、出産や子育て、介護などで多忙になり、教会から離れてしまうこともあります。
しかし、現代はネットやリモート礼拝などもあるので、それらを利用して、福音に与り続け、信仰から離れることなく、信仰を持ち続けていただきたいと思います。
組織と祈り
また、パウロはいつもピリピ教会のことを思い、信徒たちのために祈っていました。
ピリピ教会の信徒たちが信仰を失うことなく、福音に与り続けたのには、
一つは、神様の御言葉、聖書の御言葉をしっかりと語る「監督」や、プライベートな世話や配慮を行った「執事」など教会の組織がしっかりとしていたことがまず挙げられます。
そして、それに加えて、
パウロがいつもピリピ教会のために祈っていたということも大切な要因だと思います。全知全能の神様が祈りを聞いてくださり、神様が動いてくださるからです。
祈りを強調して、組織を軽んじることも、また逆に組織を重要視して、祈りを軽んじることも間違っています。
神様は組織を通して動いてくださるのです。
ピリピ人への手紙 1章6〜8節
ピリピ人への手紙 1:6-8 口語訳
[6] そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 [7] わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。 [8] わたしがキリスト・イエスの熱愛をもって、どんなに深くあなたがた一同を思っていることか、それを証明して下さるかたは神である。
今やパウロはピリピから遠く離れたローマで軟禁されていたが、それでもパウロはピリピ教会の信徒たちのことを思い、ピリピ教会の信徒たちもパウロのことを思っていた。
それは人間的な肉の愛ではなく(肉の思いから出る愛は、ちょっとしたことで壊れやすい)、神からの(上から来る)愛であり、キリストの十字架の恵みから来る愛である。
パウロも、ピリピ教会の信徒たちも、共にキリストの心、キリストの愛に溢れていたということがわかります。
「良いわざ」とは、
神様はピリピの信徒たちを悪から離れさせ、
神様の恵みを受け入れるように導き、
神様の賜物を与え、
心を一つにして神様の御旨を行うようにされました。
確かにピリピ教会の信徒たちは宣教に励みました。またキリスト教徒として善き働きをした。品物を集めて獄中のパウロに必要物資を送りました。
最後まで導く神
教会にも、私たちの人生にも、マイナスにしか思えない出来事が起こります。
しかし、マイナスのことが起こっても、神様は必ずそれを善に変えてくださるのです。
神はアルパ(初め)であり、オメガ(終わり)であります。
最初から最後まで責任を持って導きたもう御方です。
始められた御方(=良き羊飼いである御方)は途中で放り出すことなく、何が起ころうとも、最後まで助け守り導いていってくださいます。御手の業を最後まで行ってくださるのです。
「わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めている」
(ピリピ1章7節b)
パウロが獄中に捕らえられているときでも、また裁判やその他の場所で福音を宣べ伝えたり、証ししたりするときでも、パウロはいつもピリピ教会のことを思っていた。
別々のところで、別々の働きをしていても、共に神様に支えられて、神様の働き(福音宣教の働き)に参与させていただいている。もっと言えば、キリストの十字架の恵み(御業)に共に参与させていただいていたのです。
ピリピ人への手紙 1章9〜11節
ピリピ人への手紙 1:9-11 口語訳
[9] わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、 [10] それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、 [11] イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。
目標を目指して
もうすぐパリでオリンピックが開催されます。アスリートの人たちは、県大会で優勝しても、また日本国内の大会で優勝しても、それに満足せず、オリンピックで金メダルを取ることを目標にして、日々鍛錬しています。
パウロもピリピ教会が他の教会に比べて良い教会になったからと言って、決して現状に満足しませんでした。さらに高みを目指していたのです。
パウロは、いつも目標を見失うことなく、しっかりと見定めていました。
前回の聖書箇所でも、6節でパウロは「あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」と言っていました。
パウロはいつもキリストの再臨の日を見定めていたのです。
そしてここでも、パウロは10節で「キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり」と言っています。
パウロにとっての最終目標というべきもの、それはキリストの再臨の時、すなわち最後の審判の時です。
そしてその時に、ピリピ教会の信徒たちが純真で責められるところのない者になること、そしてキリストの栄光を表すことができること、まさにそれこそがパウロの最終目標であり、そして私たちクリスチャンの最終目標なのです。
そしてその日に備えさせるのが、パウロの仕事であり、キリスト教会の牧師の仕事だと思います。
理性的な愛があふれるように
それでは、どのようにして、その日に備えていけば良いのでしょうか?
パウロはここでピリピ教会の信徒たちの愛が増し加わっていくように、しかもその愛というのは、感情的な、また盲目の愛ではなく、9節に書いてあるように「深い知識において、するどい感覚において、(愛が)いよいよ増し加わ」っていくことであり、そして10節、それによって、「あなたがたが、何が重要であるかを判別することができるようになる」そのような愛だと言っています。
誰の言葉か忘れましたが、ある人がこういうことを言っています。
「知のないところには愛はない」あるいは「愛とは知ることである」
愛するということは知ること、まず相手のことを知ることです。相手の今の状況や今の気持ちを知ることです。
しかしそれだけでは不十分です。
他人に本当に益になるのか?
本当に必要なものなのか?
そういうことをよく考えて、相手にとって最善のことをすることです。
例えば、相手がお金が無くて困っているからと言って、お金を恵んであげることが必ずしも良いことだとは限りません。お酒を飲んだり、ギャンブルに使ってしまうこともあります。間違えると、相手を堕落させてしまいます。
そしてここで重要なことは、10節の「何か重要であるかをきちんと判別」できることです。
ある人は「正しい知識は神に導き、
誤った知識は迷わせる。」と言っています。
また、ローマ書の12章2節で、パウロは「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るように。」と言っています。
何が神様の御心にかなったことなのか?
何が神様を喜ばせることなのか?
そのことをしっかりと見定めるということです。
そのためには、新しい考え方ややり方にすぐに飛びついていかないということ、またこの世の知恵や耳ざわりの良い言葉にいたずらに飛びついていかないということも大切です。
そしてそのためには、牧師は時には自分を捨てて、自分がやりたいことがあっても、それを脇に置いて、神様の御心がどこにあるのか、神様の導き、聖霊の導きをよく祈り求めていくことが求められると思います。
ルカ福音書の中で主イエス様はマルタに「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」と言っています(10章41〜42節)。
無くてはならない、ただ一つのものとは何か?
この世が与えてくれる耳ざわりの良い言葉ではなく、主イエス様の御言葉にしっかりと耳を傾けていくこと、
この世の知恵ではなく、イエス様から、上からの知恵と力をいただくことです。
ピリピ人への手紙 第1章12〜19節
瀬尾要造氏は説教集『ピリピ人への手紙』の中で、パウロが内憂外患に対して、どのように対応していったかということを述べています。
外患
ピリピ人への手紙 1:12-14 口語訳
[12] さて、兄弟たちよ。わたしの身に起った事が、むしろ福音の前進に役立つようになったことを、あなたがたに知ってもらいたい。 [13] すなわち、わたしが獄に捕われているのはキリストのためであることが、兵営全体にもそのほかのすべての人々にも明らかになり、 [14] そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。
「獄に捕われているのはキリストのためである」(13節)
投獄されたということは、通常ならばマイナスであり、致命的打撃となるように思われます。
しかし、そうではなかった。投獄されたということが宣伝になったのです。
おそらく、パウロが、かつてはキリスト教を迫害していたのに、キリスト教徒になり、それが今やキリスト教の伝道者になったということも、投獄されたという事実と一緒に噂として広まったのではないかと思います。
パウロはローマ帝国の囚人ではなく、キリストの囚人であったのです。
そしてそれが、13節にあるように、兵営全体に伝わり、さらに4章22節にあるように「カエザルの家」(新共同訳では「皇帝の家」)にまで福音が宣べ伝えられ、ついにローマ皇帝の家族や召使いたちまでが、キリスト教徒になるに至ったのです。
聖霊に満たされて
そしてそれだけでなく、14節にありますように「兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。」というのです。
普通だったら、リーダーが投獄されたら、仲間たちは散り散りになってしまったと思うのです。
その証拠に、公生涯時代にイエス様が捕らえられたときに、ペテロたちは逃げて散り散りになりました。自分たちも同じ目に遭わされるのではないかと思うと怖いのです。
そんな弱いペテロたちが変わったのは、ペンテコステの日に聖霊が降り、聖霊に満たされたからです。
キリスト者の内に生きて働かれる聖霊によって強められて、迫害を恐れず、ますます力を与えられて、福音を宣べ伝えるに至ったのです。
この時も、聖霊が働かれたのだと思います。パウロが投獄されても、なお福音を宣べ伝えている姿に奮起して、そしてそこに聖霊が働かれて、確信を持って大胆に福音を語っていったのです。
内憂
ピリピ人への手紙 第1章 15〜19節
[15] 一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。 [16] 後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、 [17] 前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。[18] すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。 [19] なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。
キリスト教内部にも問題が起こりました。それは派閥や党派心の問題でした。
第一コリント書に記されているように、当時は「パウロ派」「アポロ派」「ケパ(ペテロ)派」などという派閥があったということが知られています(第一コリント1:12など)。
また、キリスト教を布教する動機には大きく分けて2つありました。
1つは、16節にありますように、パウロの働きを手伝いたいという「愛の動機」から、善意で布教を行うものです。
そしてもう1つは、パウロを妬んで、この機会に自分たちの派閥の人数を増やして、パウロ派の連中をギャフンと言わせてやろう、それによってパウロを苦しめてやろうという悪意や党派心で行うものです。
しかし、それに対して、パウロはどう言っているでしょうか?
18節でパウロは「見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。」と言っています。
どのような動機であっても、また、たといパウロ派の人たちが他の派閥に移ってしまうようなことがあっても、キリストが宣べ伝えられているのだから、それも喜ばしいことだ。喜んでいるとパウロは言っているのです。
イエス様もよく似たことを言っています。
ルカによる福音書 9:49-50 で、まずヨハネが「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」と言いました。
するとイエス様はヨハネに 「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」とおっしゃったのです。
現代のキリスト教会でも、牧師であっても、生身の人間である以上は、妬みや党派心はあります。
教勢が伸び、成長している教会のことを聞くと、妬みが湧いて来ることがあります。
自分は一生懸命にやっているのに、なぜ教勢は伸びないのだろうと思ってしまうこともあらます。
しかし、キリストが宣べ伝えられ、救われる人が起こされているのだから、それは喜ぶべきこもなのです。
宣教の主体は神様であって、人間ではないのです。
神様は妬みを持った人間でさえも、ご自身の宣教の業のために用いられることがあるのです。
それさえも、神様がなさったことなのです。
NTDの注解に書いてありますように「人間どうしのドロドロした利害関係が絡んだ、やりきれないような情況のもとであっても、キリストが宣べ伝えられる。」のです。
そして何よりも「福音は、宣教者たちを越えて、圧倒的な力を発揮する」のです。
ピリピ人への手紙 第1章20〜26節
ピリピ人への手紙 1:20-26 口語訳
[21] わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。 [22] しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。 [23] わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。 [24] しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。 [25] こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。 [26] そうなれば、わたしが再びあなたがたのところに行くので、あなたがたはわたしによってキリスト・イエスにある誇を増すことになろう。
生きるか死ぬか、それは問題ではない
生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストがあがめられることである。 (ピリピ人への手紙 1章20節)
崇めるという言葉の元の意味は、大きくするという意味です。
自分を大きくする(良く見せる)のではなく、キリストを大きくする(良く見せる)のです。
神様の御前に低くしているならば、
神様が私たちを高く持ち上げてくださるのです。
ヤコブの手紙 4:10 口語訳
[10] 主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。
また、パウロにとって、
生き延びて、生き続けることによってキリストの栄光を表していくか、
死刑になって、殉教の死を遂げることによってキリストの栄光を表していくか、
それは自分で決めることではなく、
神様(キリスト)がお決めになられることだったのです。
エレミヤ書 10:23 口語訳
[23] 主よ、わたしは知っています、 人の道は自身によるのではなく、 歩む人が、その歩みを 自分で決めることのできないことを。
パウロにとっての最大関心事は、自分の運命がどうなるかではなく、天下の衆人の面前でキリストの栄光が表されることである。
「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。」
(ピリピ人への手紙 1章21節)
生(=勝利)か、死(=敗北)か。
生きるか死ぬかではなく、どちらの結果が出ても、キリストの栄光が表されていけば、それでいいのです。
「生きることはキリスト」
自分が生きる主体なのではなく、キリストが主体です。
古い自分はキリストと共に十字架の上で死んだ。「生きているのは、もはや私ではない。キリストが私の内に生きておられる(ガラテヤ 2章19〜20節)」のです。
それでは、パウロが生き延びた場合、具体的に、どのような益があったのでしょうか?
それはキリストを表すことだ(生きるはキリスト)の一言に尽きると思います。
22節で、パウロは「肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになる。」と言っています。
神様が宣教の働きの実(救われる人)を与えてくださるのです。
さらに、24節では、
「しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。」 と言っています。
パウロは教会形成や教会の将来のことも思っていたのです。
また、パウロが釈放されないで牢獄に入れられたままでも、手紙や面接を通して、諸教会を慰め励まし、指導することが出来ます。
*パウロが手紙を残したことによって現代の私たちも力づけられ、指導を受けることが出来る。
仮に、肉体に留まって(釈放されて)活動を続けても、迫害や災害に被災するなど苦しみも待ち受けていたと思います。
もちろん、パウロは命じられた戦いを戦い続けたことでしょう。
しかし、私感ですが、神様はもうこれ以上、パウロを迫害で苦しめたくはなかったのかもしれません。
死ぬことも益
これは、死んだほうが今より楽という意味ではありません。
死ぬことが益と思うのは、「キリストと永遠にいることができるから」「キリストにあって永遠のいのちが完全に実現するから」という信仰と希望に裏打ちされているのです。
コリント人への第二の手紙 5:8b 口語訳
[8] そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
ピリピ人への手紙 1章27〜30節
ピリピ人への手紙 1章27節
「あなたがたはキリストの福音にふさわしく生活しなさい。」
律法的な規定で信徒を縛りつけたり、裁いたりするような教会形成ではありません。
福音にふさわしい教会形成とは、それは、神様に愛されている者、神様の子としてふさわしい生活(教会形成)をするということです。
神様が私たちを愛されたように、教会員どうしも、お互いに愛し合い、助け合う。
弱い人の弱さを認め、弱さを受け入れ合い、また赦し合っていく。
何が相手にとって必要かということを考える。
動揺して信仰から落ちこぼれる人が起こらないように励まし合い、祈り合っていく。
イエス様の福音だけを信じ、それだけに依り頼んで、恐れないで生きていく。
などです。
あなたがたが一つの霊によって堅く立ち、一つ心になって福音の信仰のために力を合わせて戦い(27)
ここで大切なことは、
「一つの霊(=聖霊)によって」
ということと、
「一つ心になって」
ということです。
様々な誘惑や試練に見舞われて、
信徒たちが動揺しないように、しっかりと立つ(信仰に堅く立つ)ことが何よりも大切です。
そして、しっかりと立たせるのは、聖霊の働き(力)、すなわち神様の力です。
教会は、人々が一つの霊によって、神様の全能の力に支えられて、守られて、堅く立ち、戦うことができるのです。
そして、ここで「一つ心になって」とありますように、様々な世の諸霊(具体的には、誘惑や試練、また世の人たちからの迫害や侮辱など)と戦っている一人一人が、主に励まされて、一致団結していることによって、キリストにある苦しい戦いを共に担うことが出来ます。
「一つの霊によって」が、神様との縦の関係だとするなら、
「一つ心になって」というのは、教会員どうしの横の関係です。
車の両輪と同じで、どちらも必要不可欠なのです。
両方とも大切なのです。
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