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ピリピ人への手紙 第2章

第1章はコチラ



ピリピ人への手紙 2章1〜5節


‭ピリピ人への手紙 2:1-5 口語訳‬
[1] そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、 [2] どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。 [3] 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 [4] おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。 [5] キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 


分裂の危機


 
1章27節以降に続いて、
一致の勧めが引き続いて語られます。
 
パウロがこれほどまでに何度も繰り返して語るのは、ピリピ教会の信徒たちは、分裂の危機に瀕するほど、一致団結できていなかったのではないかと推察できます。 
 
外部からの攻撃のみならず、
悪魔(サタン)は、内部を不一致によって分裂させようと仕掛けてきます。

‭‭ピリピ人への手紙 4:2 口語訳‬ でも、
「 わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。 」と、パウロは言っています。


教会の一致を崩そう、そして教会をバラバラにしようとするサタンの攻撃に打ち勝つためには、愛と一致が必要ですが、そのために必要な愛も力も、三位一体の神から来るのです。
 
愛と一致の源は「キリストによる勧め、(父なる御神の)愛の励まし、御霊の交わり」から来るのであって、
人間の頭(人間的な知恵や集団心理学的な意思統一の技術)から来るのではないのです。
パウロの助言もそこから発しています。
  

ガラテヤ2:20に「生きているのは私ではない。キリストが生きておられる」とあるように、
自分中心の思いを持った古い自分が、まず十字架の上でイエス様と一緒に死んでしまうのです。
そして新しく生まれ変わらせていただいて、キリストが心の真ん中に来ておられ、キリストが生きて働いておられる。
心が聖霊に満たされている。
そこから愛が、そして一致への思いも、出てくるのです。

そして、ピリピ教会の信徒たちが、自分中心の思いを捨て、イエス様の十字架によって心が聖められて「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いにな」って、分裂の危機を乗り越えていくならば、それが、パウロにとって最大の喜びとなるのです。

教会には弱い人もいます。
心理学的なテクニックではなく、
キリストが私たちと共に働いてくださって――私たちの内に生きて働いておられるキリストが――本当に悲しむ者を慰め、弱い者を強くし、疑い怯える者を立ち直らせてくださるのです。

また、教会には、色々な人が集まっていますから、違いがたくさんあります。
しかし、それは神様が与えてくださったメンバーなのです。神様には神様のお考えがあって、今のメンバーを与えてくださったのです。
その中で、人間を見たり、自分の考えや思いに固執しないで、神様を見上げていくときに、一つになれるのです。一致できるのです。


同じ愛を持つ
 

また、自分のほうが愛が多い、いっぱい持っていると思うと、うぬぼれたり、関係にヒビが入ってしまうこともあります。

[3] 何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。 [4] おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。


党派心や虚栄は、愛による一致を損ないます。
背伸びをして、実際以上に自分をよく見せようとすることも一致を損ないます。
 自分は完全なものになった、聖められたと豪語して、傲慢に振る舞うことも駄目です。
 
そういう思いこそが、キリストの十字架によって打ち砕かれ
心の中はキリストの愛に満たされていくときに、
むしろ他人を自分よりも優れた者だと思うようになり、
自分のことよりも、他人のことを優先して考えるようになるのです。

 


ピリピ人への手紙 2章6〜11節


‭ ピリピ人への手紙 2:6-11 口語訳‬
[6] キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 [7] かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 [8] おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 [9] それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 [10] それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 [11] また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

 

人となられた神


「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず」(6節)

「かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず」(7)


キリスト教の神様は、離れたところ(上)から権力を振りかざして被造物(人間)を監督し、支配する――おかしいと思ったら、裁く――そのようなことはなさらなかったのです。

キリスト教の神様(救い主キリスト)は、人間の姿になって、人間の世界に降りて来られたのです。

しかし、イエスは仙人や聖人君子のようになられたのでも、パリサイ人や律法学者のようになられたのでもなかったのです。

→もっと立派な人間になれ、と言って、スパルタ教育を行ったりしたりはしなかった。

キリストは、取税人や罪人、障がい者と言った世の人々から差別されていた人たちとも交わられたのです。


水戸黄門のような神様


昔、水戸黄門というテレビドラマ(時代劇)がありました。
江戸時代に、前の副将軍という雲の上にいるかのような偉い人が、
貧しい民と同じ姿(越後のちりめん問屋の隠居)になって、一般庶民の家に泊まり、民と交わり、民の苦しみを目の当たりにするのです。
そして、その苦しみの原因が政治家にあると認めたら、その政治家を懲らしめる。そういうドラマでした。

キリストもある意味で水戸黄門と似ています。神の御子であったのに、人の姿になって、貧しい人たちのところにやって来られたのです。


 

民を救うために死なれた神

[8] おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。(ピリピ 2章8節)


一方、天におられた父なる神様は、人間の罪深さを知り、それを何とかしようとなさった。

しかし、ノアの時のように洪水で人類を滅ぼし尽くすのではなく、だからと言って、見て見ぬふりをするのでもありません。 

そこで、天におられた父なる神様は、以前から考えていた計画を遂行しようとなさいました。

それは、地上に遣わした ご自分の御子イエス様に、全人類の罪を全部 背負わせて、身代わりになって、罪をあがなわせようとなさったのです。
十字架に架かって死なれることによって、全人類の身代わりになって、本来ならば私たち人間が受けなければならなかった神様の裁きを代わりに受けられたのです。

そして、御子イエス様は、喜んで、その父なる神様のご計画に従われたのです。

このことからも、神様がどれほど私たち人間のことを愛しておられるかということが分かります

神様は人間がどのような状態であっても、人間を愛し抜かれ、私たちを包み、受け入れ、力を与えてくださいます。
そして私たちは、神様に支えられて、神様に生かされて、力強く生きていくことができるのです。

 

キリスト誕生


神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった」(9節)

御子イエス様は、全人類の身代わりになって罪を背負って死んでいくという使命を見事に果たされました。

もちろん、天におられた父なる神様は、御子イエス様をそのままにはしておかれませんでした。

天の神様は、そのイエス様に、神様の愛をもって、全世界を霊的に支配し、全世界を救う救い主キリストという名をお与えになられたのです。

 そして、そのイエス・キリストによる救いの業を信じる私たちを、神様は最後の審判の時にも救ってくださるのです。

私たちは、そのようなイエス様を主と仰ぎ、
人となられて、私たち人間の苦しみを味わい、理解してくださったイエス様を、
そして何よりも、十字架の上で私たちの罪のあがないのために、身代わりとなって死んでくださったイエス様をほめたたえるのです。



ピリピ人への手紙 2章12〜15節

 

 ‭ピリピ人への手紙 2:12-15 口語訳‬
[12] わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 [13] あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 [14] すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 [15] それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 

救いの達成

12節後半で、パウロはこの段落のキーワードになる言葉「救いの達成」という言葉を出してきています。
「自分の救いの達成に努めなさい」と言っています。

それでは「救いの達成」とは何でしょうか? イエス様の救いを信じて、洗礼を受けただけではダメなんでしょうか?
まだ何かをしなければいけないのでしょうか?

私はこの「救いの達成」という言葉は、「救いの完成」という言葉に置き換えてもいいのではないかと思います。

15節では、パウロは「あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となる」と言っています。

これは、やがてやって来るキリストの再臨の日に、私たちが「責められるところのない純真な者」となり、「傷のない神の子となる」ということです。

また、テサロニケの第1の手紙では、こう言っています。


‭テサロニケ人への第一の手紙 5:23 口語訳‬
どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように


ここでパウロは「全くきよめてくださるように」「キリストの来臨の時に、責められるところのない者にしてくださるように」と言っています。

キリストが、やがてもう一度、この地上に再臨なさる時に、私たちが「責められるところのない純真な者」となり、「完全に聖められて傷のない神の子となる」ということ、まさにそれが「救いの達成」であり、「救いの完成」なのです。
 
別のキリスト教用語(神学用語)では、これを《栄化》と言います。


義認→聖化→栄化

イエス様の救いを信じて罪ゆるされ、義と認められたことは《義認》と言います。クリスチャン生活のスタートです。

そして、クリスチャン生活のゴール、それが栄化です。

そして、義認から栄化までの間、つまり私たちがクリスチャンになってから天国に行くまでの間、私たちは少しずつ聖なる者に造り変えられていくということで《聖化》と言っています。

私たちクリスチャンは、とかくすると、恵みや赦し、賜物や祝福などを神様からいただくことばかりを考え、求めがちです。
また今あるがままでいいですよ、そのままで神様に愛されていますよ、と言います。
それは間違ってはいませんが、そこに留まってばかりではいけないと思います。

やはり少しずつでも、聖化され、神の子として、ふさわしい者に変えられていく。キリストに似た者に造り変えられていく。そしてやがては、傷のない神の子とされて、天国に行き、キリストとお会いする。


神によって始まり、神によって終わる

 

ピリピ人への手紙 2章13〜14節 口語訳
 [13] あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 [14] すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 


この聖句は「自分の思いや願い事」の実現のために、御利益的に利用されることが多い。
聖書を読み、正しく理解するためには、前後の文脈(前後関係)が大切です。
 
 
この聖句は、言うまでもなく、前節の「救いの達成(完成)」のことを言っています。

つまり、神様は、私たちクリスチャンの心の中に「救いを完成させたい」「キリストにお会いする日のために、傷もシミもない神の子になりたい」そのような願いを起こさせ、
なおかつ、それを実現に至らせてくださるのです。

つまり、神様によって始まり、神様が最後まで、完成に至るまで、責任をもって導いてくださいます。

パウロは別の手紙でも「パウロは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださるのは神である(第1コリント3:6)」と言っています。
神様が成長させ、完成まで導いてくださるのです。


山谷を乗り越えて


完成を目指して歩んでいく私たちクリスチャンの信仰生活は順風満帆ではありません。
1.悪魔(サタン)の誘惑や攻撃があります。
2.家族や仕事仲間、親族や友人、その他の人たちから侮辱されたり、迫害されたりすることもあるかもしれません。
3.病気や怪我、事故や自然災害などの試練もあります。
4.信仰的にスランプに陥ったり、祈る気がしなくなったりすることもあります。
5.教会の中の人間関係などでつまずいたりして、教会に行かなくなってしまうこともあるかもしれません。

しかし、大切なことは、私たちがどんな状態になっても、神様は私たちのことを見捨てたり、見放したりはなさらないということです。


有名な詩で「足跡」という詩があります。その詩は、原文そのままではありませんが、次のような内容です。
 

"最初はイエス様と一緒に歩いていたので、足跡は4つあった。
ところが、ある所から、足跡が2つだけになった。
私はイエス様がどこかに行ってしまわれたと思って、泣き叫んだ。
その時、イエス様の声が聞こえた。
「あなたが(自分の足で)歩けなくなったとき、わたし(=イエス様)が あなたを背負って歩いていたのですよ。」"

この詩にありますように、
私たちがもし自分の足で信仰の歩みを歩んで行けなくなったら、イエス様が私たちを背負ってでも、私たちをゴールまで、天国まで連れて行ってくださいます。


救いを達成するために
 

聖書には「救いを達成しなさい」という言葉に、いくつかの修飾的な語句が付いています。
「従順でいて」(12節)
「恐れおののいて」(12節)
「つぶやかず疑わないで」(14節)

・従順は、神様の御言葉、イエス様の教え(この頃はまだ福音書はなかったので、口伝伝承)またパウロの手紙に書いてあることなどに従順であること。

・恐れおののいては、リビングバイブルを参考にすれば、
恐れ=「(神に対する)深い尊敬の思いをこめて」、
おののき=「神に喜ばれないことからは手を引く」こと。神様を悲しませることに対するおののき。

・つぶやかず疑わないで
自分の思いどおりにいかなくて、現状に満足できなくても、神様は私のことを愛していてくださり、必ず最善に導いてくださると信じて、疑わないようにする。また不平不満を言わない。


クリスチャンの存在


15節の後半で、パウロは「あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。」と言っています。

生命の御言葉(神様の御言葉、主イエス様が教えてくださった教え)は、ピリピの教会員たちを邪悪な暗黒の世の中から救い出してくれました。(NTD)
 そしてまだ教会に導かれていない人たち、救われていない他のピリピの人たちも同じ恵みにあずかる可能性は十分にあるのです。

これからも、どんなことがあっても、生命の御言葉を疑わないで信じて、守り、従っていくことによって、
私たちは邪悪なこの世の中にあって、星のように輝いていることができます。

星は、旅人にとって、正しい道に導いてくれる希望の光です。私たちクリスチャンは、この世の中で人生の道に迷う人たちにとって、正しい道に導いてくれる希望の光(世の光)なのです。
 


ピリピ人への手紙 2章16〜18節


 ピリピ人への手紙 2章16〜18節
[16] このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。 [17] そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 [18] 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

パウロの宣教の評価


1章27節から2章15節まで、パウロはピリピ教会のために指導をしてきました。

2章16節から、パウロは再び自分のこと(自分の現状と心境、これからの予想など)を語っています。


まず16節で、パウロは、これまでの宣教人生を振り返って、
「キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。」
と言っています。 


パウロは、これまで、幸いと災い、喜びと悲しみをピリピ教会の信徒たちと共に分かち合い、教会が立つか倒れるかの命運を共に負ってきました。(NTD)

しかし、自分の宣教の働きの結果がどうであったか今はまだ分からない。それは、再臨の日に明らかになる。

もし、ピリピ教会が一致を失い、教会が分裂し、崩壊してしまったら、また悪評が広まれば、これまでのパウロの努力は無駄になってしまいます。

しかし、ピリピ教会が質量共に成長していくなら、パウロの働きは無駄ではなかったということになります。

つまり、ピリピ教会は、このまま分裂して駄目になってしまうか、それとも一致を取り戻して、質量共に成長して、立派な素晴らしい教会になるか、瀬戸際に立っていたのです。


殉教に備えて


「あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、私は喜ぼう」(17節)


ここで、パウロは自分が殉教の死を遂げた時のことを予想して、
その時に、ピリピ教会の信徒たちがどのように受け留めればよいのかを示しています。


まずピリピ教会の信徒たちを励ます意味でも、ピリピ教会の信徒たちの信仰は、神様に喜ばれる献げものであると言っています。

つまり、ピリピ教会の信徒たちが、分裂の危機を乗り越えて、心を一つにして、信仰を保ち続けていくならば、神様はそれをとても喜んでくださる。それ以上の献げものはないのです。

そして、パウロの殉教の死は、その祭壇に加えられる燔祭の供え物となるのです。
 燔祭とは古代ユダヤ教では(旧約聖書のレビ記などに記されている)全焼のいけにえのことです。
 雄山羊などを割いて、血は祭壇に流し、肉は完全に焼き尽くしてしまうのです。


もちろん、罪のあがないのための犠牲は、主イエス様がすでに十字架の上でご自身がいけにえとなって行ってくださいました。

 ですから、ピリピ教会の人たちの信仰とパウロの殉教の時に注がれる血潮の献げものは、罪のあがないのための犠牲ではなく、イエス様の十字架の犠牲に対する応答の礼拝であり、感謝の献げものなのです。
 
また、1章23節に書いてあるように、パウロにとって、死は、いつも、いつまでも、キリストと一緒に居れるということでもありました。


そして、ここでパウロは、以上のような意味で、「殉教は喜ばしいことなのだから、パウロの殉教の死の知らせがピリピに届いても、ピリピの信徒たちは嘆き悲しむのではなく、喜んでほしい。」と、そう言っているのです。


ピリピ人への手紙 2章19〜24節


 ピリピ人への手紙 2:19-24 口語訳‬
[19] さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。 [20] テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。 [21] 人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。 [22] しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。 [23] そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。 [24] わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。 

2章19節からパウロはいきなりピリピ教会に向けて業務連絡を始めます。
用件はテモテとエパフロデトをピリピ教会に送るということです。

まず19〜24節に記されているテモテの派遣について見て参ります。

パウロとテモテ


テモテは、小アジアのルステラ出身です。

パウロは第1回伝道旅行の時にルステラで伝道していますから、その時にパウロに導かれて、キリスト教に入信したと思われます。

そして使徒行伝 16:2に書かれているように、テモテはとても評判が良かったので、パウロは第2回伝道旅行に途中からテモテを連れて行っています。


 ‭‭使徒行伝 16:1-3 口語訳‬
[1] それから、彼はデルベに行き、次にルステラに行った。そこにテモテという名の弟子がいた。信者のユダヤ婦人を母とし、ギリシヤ人を父としており、 [2] ルステラとイコニオムの兄弟たちの間で、評判のよい人物であった。 [3] パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。


そしてこの後で述べますように、
テモテは人格的にも優れていたので、
パウロはテモテを自分の代理として、テサロニケやコリントに派遣しています。

テサロニケ教会への派遣

‭テサロニケ人への第一の手紙 3:2 口語訳‬ 「わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め・・・」


コリント教会への派遣

‭コリント人への第一の手紙 4:17 口語訳‬
「このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。 」


派遣の目的


テモテは、パウロともピリピ教会とも十年来の付き合いだったので、信頼関係がとても強かったのです。
それで、パウロはテモテをピリピ教会に派遣しようとしたのです。

19節bに「あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。」
と書いているように、

第一義的な目的は、ピリピ教会の様子(ピリピ教会の信徒たちが、信仰に堅く立って、愛による交わりをし、心を一つにして一致している)を、噂や手紙ではなく、テモテ自身の目で見てきてほしかったのです。
パウロはそれで安心したかったのです。まさに、百聞は一見にしかずなのです。 

エパフロデトのところでも申しますが、当時、ローマにいるパウロとピリピ教会の間で、頻繁に手紙のやり取りがあったと推察されます。

パウロの所にも、パウロが心を痛めるような情報が頻繁に入ってきていたようです。
それで、それらの情報の真偽を信頼しているテモテに直接見てきてほしかったのです。


テモテの人となり


さて、手紙の内容に入って参りますが、20節から22節までの所で、パウロはテモテの人となり(人格)をベタ褒めしています。

そしてここにはキリストの使者になる人の条件が記されています。


1.親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。(20節)

テモテは、ピリピ教会の信徒たちのことを、他人事としてではなく、自分のことのように心配し、気にかけていたのです。
気持ちだけでなく、行いを伴った愛があったのです。

牧師であっても、かつて自分が牧会していた教会が無牧になったり、良くない噂を聞いたら心配になります。それと似ていると思います。


2.人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(21節)

テモテは、イエス様に仕えていくこと、教会を前進させることだけを考えていました。

奉仕にも、自分がやったんだという思いが出てくることがあります。自己満足です。

また自分が認められたいという名誉欲のようなものも出てきます。

また、良くないことが起こると、途中で逃げ出して、職場放棄してしまうこともあります。

パウロの周りには、多くの奉仕者がいたのですが、パウロから見ると、そのような失格者が多かったようです。

多くの奉仕者は自分を大きくすることばかり考えていたのに対し、テモテは自分ではなく、キリストを大きくすることを考えていたのです。


3.テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。(22節a)


ローマ人への手紙 5:3-4 口語訳‬ で、
「[3] それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 [4] 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 」
とパウロは記しています。

色々な思いがけない出来事に遭遇しますが、そこから逃げ出したりしないで、信仰と祈りによって神様に助けられて、また愛と忍耐によって乗り越えていくときに練達するのです。

そういう意味でも、テモテは本物の信仰を持った、本物の奉仕者であったのです。


4. 子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。(22節b)

テモテはパウロと試練をも共にして、共にキリストのために働いてきました。

ですから、テモテはパウロの仕事を見てきたから、何をどうすればいいのかも分かっていたのです。


パウロの希望


 ピリピ人への手紙 2章23〜24節
 [23] そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。
[24] わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。


パウロは、自分が死刑になるかどうか、判決を見てから、テモテを送ろう、もし自分が釈放されたら、テモテを連れて、一緒に行こうと思っていたのです。



ピリピ人への手紙 2章25〜30節


ピリピ人への手紙 2:25-30 口語訳‬
[25] しかし、さしあたり、わたしの同労者で戦友である兄弟、また、あなたがたの使者としてわたしの窮乏を補ってくれたエパフロデトを、あなたがたのもとに送り返すことが必要だと思っている。 [26] 彼は、あなたがた一同にしきりに会いたがっているからである。その上、自分の病気のことがあなたがたに聞えたので、彼は心苦しく思っている。 [27] 彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。 [28] そこで、大急ぎで彼を送り返す。これで、あなたがたは彼と再び会って喜び、わたしもまた、心配を和らげることができよう。 [29] こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。 [30] 彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。


キリストの使者エパフロデト


ローマで軟禁されていたパウロのもとには多くの奉仕者が働いていました。
その中にエパフロデトという人がいました。

彼は、ローマで軟禁生活を送っているパウロのために、ピリピから贈り物(生活に必要な物資)を運んで来ました。
そして、しばらくの間、ローマに留まって、パウロの身の回りの世話をしたり、宣教活動を手伝ったりしていたようです。

ところが、そんな彼に病魔が襲います。
30節に「彼は、わたしに対してあなたがたが奉仕のできなかった分を補おうとして、キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになったのである。」
と書いてありますが、
ピリピ教会の信徒たちの分まで、頑張ってパウロの宣教活動のお手伝いをしようとして、命がけで宣教の業に励み、ついに瀕死の病気にかかったのです。

しかし、神様はエパフロデトを憐れんでくださいました。

 ピリピ人への手紙 2章27節
彼は実に、ひん死の病気にかかったが、神は彼をあわれんで下さった。彼ばかりではなく、わたしをもあわれんで下さったので、わたしは悲しみに悲しみを重ねないですんだのである。

エパフロデトは奇跡的に癒されて、再び健康を取り戻すのです。


計画の変更


エパフロデトが瀕死の重病にかかり、それが奇跡的に癒されたということは、
エパフロデトを速やかにピリピに返さなければならないという神様のお導きではないかとパウロは考えました

それだけではありません。
当時、ピリピとローマの間には頻繁に手紙のやり取りがあったようで、
エパフロデトが瀕死の病気にかかったということも、すぐにピリピ教会に伝わってしまったのです。

パウロのお手伝いをしなければいけないのに、逆に、病気になって、パウロたちの厄介になってしまっているんではないかと批判する人もいたかもしれません。
エパフロデトはとても気にしていたのです。

そこでパウロは、エパフロデトをピリピに送り返すことが神様の御心であると信じて、健康を取り戻したエパフロデトを至急、ピリピに送り返すことにしました。

しかし、エパフロデトには、もう一つ大切な仕事ができました。
これは、この手紙をピリピの教会に届けるという仕事でした。


心憎いばかりのパウロの配慮


そしてパウロは、ピリピに戻ったエパフロデトの評判が悪くならないように、
手紙で書き記しておいたのです。

まず、エパフロデトのことを、パウロは25節で「わたしの同労者戦友である兄弟
というように、肩書を3つも付けています。

さらにエパフロデトの働きについては、30節で「キリストのわざのために命をかけ、死ぬばかりになった」
というように、命がけで伝道した。キリストのために働いたと言っています、

そして、29節では、ピリピ教会の人たちに向けて「こういうわけだから、大いに喜んで、主にあって彼を迎えてほしい。また、こうした人々は尊重せねばならない。」と言っています。

エパフロデトがピリピ教会に戻ったときに、ピリピ教会で喜んで受け入れてもらえるように、パウロは配慮しているのです。



















   


 









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