air あらゆる幸よ、空を通じて往け
「幸せ」な記憶を紡ぐ物語
airを“観た”つまりゲームではなくアニメを観たのである。この作品の深淵は“プレー”することであるのは、作品の構成的に理解できる。が、作品のテーマ、描きたい思想についてはアニメでも伝わっただろう。
大百科の翼人の説明にある通り「幸せ」な記憶を紡ぐ物語がこの作品だ。翼人は渾沌以降、つまり始まりに現れた世界を己の羽に記録する(紡ぐ)者である。星の記憶の体現者として彼等はあり、だからこそ彼等は自ら幸せであることに努めた。
彼等の羽は地球の記録の片鱗であり、それに触れた者は本人の現在の問題と、羽の記憶した古の未練が繋がり、羽は更にその未練と触れた者の苦しみを解放する力を発揮する。(霧島一家の件)現代と接続したり、触れた者の悲しみと幸せの転換点にある存在を示す装置となる。(遠野一家の件)そして羽は幸せな結末を経た後に再び空へと還る。そんな翼人もまた絶滅が約束されている面で生物であり、だからこそ己の幸せに努めたと言える。
末法と試練
翼人は平安も後半に差し掛かった1000年遂に滅する。それも人々の憎悪の手によって。この滅するとは、生物としてであり、これは別の見方をすれば人間に神がほぼ見えなくなった、自然を畏れなくなってきたということである。まぁ言いたいことはもののけ姫の歴史観と同じだ。しかしその翼人は未練を保ったままであり、成仏(空に行く)ことができていない。
つまりゴールできていない。末法の開始は1052年でまだ少し先にあるが、この時代は道長の時代であり平安の世も斜陽前と言ったところだろうか。2000年から数えて1000年前に翼人の最期(神奈備命の死)であったとして、日本の歴史もたまたま終わりを察しつつある時代であることは興味深い。息永らえてきた神代の終わりとそれ以降の闘争や人の時代の到来を示しているように思う。
柳也と裏葉は翼人について、血と物語でもって伝え、そしてその未練を解き放てと愛の名の下に願いを込めた。これは重要なことだが、注目したいのは個人性である。往人は柳也と裏葉の一族であり、その人間でなければ神奈は救えない。つまり翼人という全体性を解放できるのは国崎の一族の特権である。対して神奈はその絶滅以降、未練に苛まれながら羽根を落とし空を飛び続け、また人間の女の子として輪廻する。人間の女の子として不規則に輪廻する点は全体性であり、それは羽根を撒き散らしていることからもそうであろう。
空を飛び続けることについては物語の伝承として全体性が引き受け、それは落ちた羽根がやがて幸せに満ちて空に還ることで神奈を癒す。女の子に輪廻することについては、最期の翼人の選んだ柳野の一族が女の子と出会い夢を終わらすことで神奈を解き放つ。この物語はそういう意味で全体性と個別性の両面が星を記憶する者を解放しようとしていることが分かる。このことから翼人はただ全体に尽くすだけでなく、自らの幸せをも叶えてきた存在であることが言える。
神奈の生まれ変わりと一族は、翼人の願いを達せられず何年も失敗し続けたが、その涙とその間何遍もの羽根は空に返り神奈の魂を癒したのだろう。だからこそ1000年の時を経て国崎往人の代で終わったのではないだろうか。
(だがそこで忘れてはならないのは、八百比丘尼は絶望のまま翼人を絶えさせようとした、つまり翼人は己も幸せでなければならないという祝詞という形でされた先祖との約束の破棄、結局人間の戦に加担して人々の憎悪を集めた翼人もいたことが察せられる。このことから翼人も生物であり、罪無き者では決してなく、人間悪、翼人善と善悪二元論に走ることは多分誤りであると思う。彼等の最期の子があのようになったのは親のせいでもあり、だがそれも運命なのだろう)
還る場所としての死と母
この物語は夢を通じて観鈴が翼人の想い出をその誕生まで追うことで終わりを迎えられる。それと同時に観鈴は母晴子に辿り着き抱きしめてもらうことで全ての幸せを完結させ空へと向かう。星の記憶を夢の中で遡りながら、最後は生の中にある始点、母に飛び込みその喜びを空に届けに言った。前者は翼人の中にあると全体性に対する奉仕であり、後者は翼人としての使命の全うでかるが、彼女は前者、夢についてもう一人の自分を段々と確信しながら完成していった。後者はそうありたかった自分の小さな頃からの願いが叶えられながら完成していった。
つまり夢は未知から自ずと導き出される答えであり、親子になることは自分の願いを形作る生成であった。
しかし晴子の言う通り親子になることは元来終わりではない。だからあかんのである。しかし観鈴は神奈の生まれ変わりであり、存在そのものは供養する対象なのだ。だから晴子は御供え物の一環である。ここが翼人と人間の差である。晴子と八百比丘尼は重なる内面があるも、それは八百比丘尼として適任であったということだ。
では国崎往人は何か。神奈の愛した男の子孫は、神奈の生まれ変わりを救わん為に最後は先祖の遺した想いの結晶(人形)と同化した後、神奈の生命力として己を変換させた。「おまえと一緒にいて、お前を笑わせ続ける。そうすることにしたんだ」
その後はカラスへと生まれ変わった。翼になったということだろう。
鼻から幸せに死ぬために観鈴はあった。生まれてくることが人の幸せならば、親子の関係が大成することは幸せであり、始まりである。それを翼人は知っていた、だから最後の翼人は母との幸せを幸せの条件として考え、それを観鈴と晴子は天に示した。そしてそれは役目の終了であった。恋愛という前進や性ではなく、母子という後退と懐かしさがあのように示された。これは誰もが身に覚えのある素敵な光景だ。そういう意味でも究極で全体性があるといえる。
あどけない観鈴は見ていて懐かしく、恥ずかしいような気がした。ともかくあれ程素晴らしいものがあるだろうか。髪を切るのも、共に寝るも、トランプするも、ジュース飲むのも全部が浄土のように安らかであった。母と自分、時々父親しかいない世界の頃を思い出した。美しかった。また観鈴が母さんを苦しめさせないように嫌いなフリをしてるあの健気な様と、それが挫ける瞬間。おばさん誰?と尋ねる瞬間。そしてお母さんのことを絶対忘れないと言って眠りに着く瞬間。砂浜を走りママ!と叫ぶ瞬間。全部が懐かしくまた美しかった、心に突き刺さった。親子の終わりは子離れと親離れしであるが、観鈴と晴子にとってそれはまさに親子になる瞬間である、子どもが自らの力で親の元へと駆ける瞬間であり、まさに終わりと始まりが重なる瞬間であると言える。これはまさに神の成せるものである。だが人間は子に死が迫るにつれて親は親の如くになる。なんて私達は切ないのだろう。男、つまり往人はそれを眺めることしかできない。往人は最後空に女の子を迎えに行くために飛び立った。それは未来を示している。晴子は天を晴れやかにし、往人は天に往く。往くという字は出発地へ戻ることを前提とし、出発地から目的地まで進むことである。人として転生できるようになった神奈を再び天から地へと招き入れる。これは人の交わりである。天に浮かんだ命の器に対して種を植え付け未来を紡ぐのは男の役割なのだ。メタなことを言えばこの作品を通じて私達男がまだ見ぬ誰かと星の記憶を継いでいくことの尊さが示されていると思う。
幾星霜の仲間と先祖へ愛を込めて
翼人は人類の記憶の擬人化であると思う。その片鱗に人は触れて幸せを学びそれと同化する。人類の記憶に人格があった場合、汝と私の間には幸せが紡ぎ出される。そこには始まりと終わりの出現、消滅がある。翼人が滅び、その成仏から新たな転生まで1000年の時が必要とされた。翼人の役目、星の記憶は人間に引き継がれた。私達はどう生きるべきだろう。改めて生について考えさせられた。
「彼らには、過酷な日々を。」
「そして僕らには始まりを。」
いつだって子どもは、否人間は無邪気でわがままで残酷だ。だがこの繰り返しは人間の生業であり、人間は愛に生きるというならば過酷な日々を要求することもまたその一つなのかもしれない。
生きること
airという作品は幸せを紡ぐ作品であるが、同時に神の畏れも描かれていると思う。晴子が置いて行かれる瞬間は特にそうであり、羽のある翼人が羽ばたく姿はやはり美しくも恐ろしい。華奢な観鈴が背中の羽根の痛み、本来ただの女の子である彼女が神の成仏のために苦しむのである。観鈴の運命を痛感する。同時にこの作品には苦行の立場にある者への慰撫が込められていると思う。翼人もそうだが、旅をして芸をし生業を保つ者、義理の親子関係にある者、智徳法師、浪人武者、片親の娘、流産の母、幼くして親と死別した姉妹、決して順風満帆とは言えない人達である。だがその絶望を強調することはなかった。彼等がこの物語の世界を構成してることは重要である。またそれぞれの話において消滅は訪れている。腕のリボン、みちる、往人。そして観鈴。始まりは消滅があるからこそ訪れるということだろう。
晴子が家族のことを述べた後に綴った言葉である。なんともない言葉だが、晴子と観鈴の最後の三日間はそれで溢れてると心から感じた。個人的に晴子と観鈴が同じ名字であることに生々しさを帯びた驚きと感動があって好きだ。晴子からしても姉の子であり、そもそも橘も幼い頃から付き合いがある仲である。晴子にとって侑子という存在はなんだったのだろうか。死別した姉、そしてその姉の子を我が子として尽くした晴子について侑子はどう思うのだろうか。多分、感謝してるに決まってる。
翼人の翼に触れた八百の人々が幸せを受け取り、その幸せを空に還すことで神奈を癒し、またそれが幾星霜も繰り返される苦しみを乗り越えようとした一族と翼人の生まれ変わり達を助けていたことに感動した。私達、あるいはあの人達の幸せは幾千もの人々の幸せの支えの上にあることがあれ程ちょうどよく美しく描き出されていることに感動した。その繋がる場所としての空という存在に偉大さを感じる。
取り敢えず書きたいことは書ききれていたないが、書いただろう。どうしても書きたいことは後で修正なり付け加えることだ。嗚呼それにしても素晴らしい作品だった。全てに感謝したい。ここまで読んでくれた方ありがとうございます。貴方ともきっとこの国で…あの空で通じ合っていて、私の今を素敵にしてくれているのでしょう。ありがとう。
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