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すごく面白かった「解像度」の話。

今日初めて話した友達との「解像度」についての話が
とても面白かったので、この場に残しておこうと思います。

会話の入口は、
「自分に対して期待を持ってかけてもらう言葉に嫌悪感を感じる」という
友人の言葉だった。

私はそこで、

「その【言葉】に嫌悪感を感じるのではなく、その言葉を発している【人】に嫌悪感を感じているのでは?」
「その期待の通りに歩むつもりはないのに、他人から見るとその上を歩いているという事実に気が付かされて、結局期待通りを歩んでしまう自分に自己嫌悪を感じるのでは?」

という二つのことを思い、友人に伝えると、
「確かにそうかも」と言ってくれた。

でも私は、周りに期待通りの上を歩いていると思われていても、
全然いいのではないか?と思った。

なぜなら、自分と相手の「解像度」が全然違うから。

「解像度」というのが、非常に抽象的で、私は家電量販店で
テレビを販売しすぎているせいで、「2Kと4Kと8Kの違い」と
いうとピンとくるのだが、伝わりにくいと思うので
料理で例えることにした。

例えば、【嫌悪感を感じた言葉】=【餃子】であったとしよう。
Aさんは、Bさん(友人)に対して、
「餃子だね、すごいね!」と言ったとする。
でも、Bさんからしてみると、それは餃子ではなく、
「モモ(インドの屋台料理の一つ。小麦粉の皮の中にマトンのひき肉とパクチーの餡がつまっている。)」かもしれないし、
「餃子と言ってもただの餃子ではなく、開楽の餃子(池袋の有名な中華屋さん)」
かもしれない。

Aさんにとっては、モモも開楽の餃子も、
「餡を皮で包んだ食べ物」であることに変わりはないのかもしれないが、
Bさんにとっては圧倒的な差がある。
両者に優劣はないし、どちらがいいというわけでもない。

ただ、餃子という存在に幅があり、
その差が嫌悪感とやらに繋がっているだけだと思う。

この解釈の幅が、冒頭でいう「解像度」であり、
解像度の違いが他者との対話において、食い違いを生んだり、
「あ、私とこの人の話のレイヤーって全く違うな」という
感情を生んだりするのだと思う。

この解像度に関して思ったことが二つ。

一つ目は、「解像度低い→解像度高い」の理解は難しいが、
「解像度高い→解像度低い」の理解は可能であるということ。


もっと平たく言うと、
・餃子、モモ、開楽の餃子は全く違う
・これを餃子でくくることができるし、くくる人もいる
ということを知っていれば、
・モモも開楽の餃子も餃子であり、そこに違いはない
と思っている人の考えを、理解することはできる、ということ。

この反対条件を考えると、後者の人はモモと開楽の餃子について
全く知らないので、理解は困難であると思う。

私の考える頭のいい人は、この解像度がすごい高い、かつ
人の解像度がそれぞれ違って、幅があることをきちんと理解している

だから、相手の解像度がどれくらいかを会話の中で推し量って
それに合わせて話すことができる。

そういう頭のいい人と話すと、自分がすごく解像度の
高い話をしているように感じるのだけれど、
それはその人にお膳立てされているだけで。

頭のいい人に対して、頭がいいと感じる理由を
今まで説明できなかったのだけれど、今回の会話で
めちゃくちゃしっくりさせることができた。

解像度に関しての二つ目は、
解像度の違いに優劣はないということ。
これも食べ物で説明してみる。

例えば、この世の全ての美味しいものから庶民派のもの、
不味いものも食べつくした人がいるとする。
一方で、タロイモしか食べたことの無い人がいるとする。

この両者の中ですごいのは、羨ましいのはどっちだろう?

恐らく、前者の方がすごいし、羨ましいと考えるのではないだろうか?

しかし、私が思うに、両者の優劣は全くないと思う。

なぜかというと、前者の人は、
蒸したタロイモを蒸し器から出した瞬間の得も言われぬ匂いや
タロイモ料理を家族みんなで食べる幸福
タロイモがいろいろな料理に変身することを
知らないかもしれないからだ。

確かに、「イモ」というワードを両者が聞いたとき、
前者はタロイモだけでなく、ジャガイモや山芋、はたまた
料理であるポテトグラタンについて
思いを馳せることができるかもしれない。
一方で後者は、タロイモを思い浮べるだけである。

しかし、解像度そのもので図られる指標は何もなく、
そこには「解像度が違う」という事実があるだけ

また、「食べた料理の数」という視点の解像度から見ると、
両者の違いが存在しただけ。ただそれだけだと思う。


この話の終着点は、というと、

相手と自分のみえ方、分類の仕方、見る視点は全て異なっていて
自分とは、全く違う、その視点を取り入れることは自分にはできない、と
理解したうえで、相手の解像度が「ただそこにある」ということを
受け容れるのが大事なんじゃないかな

ということ。

そんなことを思った、3/9の夜でした。






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