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「NICE」であろうとする、いい子な自分を手放したら、私にどんなことが起きたか

電気ポットのスイッチをカチッと押して、お湯を沸かす。

23時。

家の中は静まり返っていて、電気ポットのシューという音が嫌に大きく聞こえる。この音が寝ている夫と娘を起こしてしまうんじゃないかと思って、沸き切る前に自分でスイッチを切る。

沸ききってないぬるいお湯にティーバックを浮かべて、そそくさと仕事部屋へ急ぐ。誰かに邪魔されることなく、このnoteに向き合う時間を確保したかった。

さて、ぬるいお茶を飲みながら、とても長い間トンネルにいた私の物語を書いてみようと思う。問いと、回答の往復で書いてみたい。

--なぜこのnoteを書くのか?

自分が立ち返るセーブポイントを作りたい。

これまでの私はしばしば自分の状態をゼロに戻してしまう癖がある。

何か失敗した時によく起こるのだが、自分のことを信じられなくなって、これまで積み上げてきたものをなかったかのように振る舞ってしまうのだ。ゲームのリセットボタンを押すように。

でも私の人生はリセットできない。これまで歩んできた道や積み上げてきたものたちは消えることがないはずなのに、消えてしまったように感じ絶望してまう私を助けたいのだ。

セーブポイントがあれば、ゲームをまた一からやり直さなくていい。

そしてそれは、セーブするこれまで歩んできた道や積み上げてきたものたちを認めることになる。そう思うと抵抗が生まれる。私はここがとことん苦手だ。

ただもう同じことの繰り返しはしたくないので、ここで自分の人生のルート変更をする。そんな想いでポツポツと書いていきたいと思う。あなたも一緒に目撃してくれたら嬉しいな。

--どんなことをまず話したいか?

私はとてもいい子だったと思う。5人家族の次女として生まれ、私は家族の中でもよくものが見えていた方だと思う。しっかり者とお調子者のバランスを保ちながら、妹と姉という役割の中で一番考えていたのはおそらく「母が悲しむことはしない」「母の喜ぶことをする」だった。

私が9歳の時に父は他界した。肺がんが見つかったのは夏の家族旅行の後で、次の冬を越えることなく旅立った。

うちは田舎だったし、当時は家でお葬式をするのが一般的で、たくさんの人が家に来てくれた。母が来る人来る人に頭を下げていたのを覚えているし、参列者の声掛けに応答する母を見て私はわんわんと泣いていた。

ぼんやりだけどすごい列をなして絶え間なく来る人たちを見て、これはいつまで続くんだろう、私はいつまで泣き続ければいいんだろうと感じていた。

--どんな感情がそこにはある?

周りからは父が亡くなったことに泣いていると思われていたようだ。それもある。しかし、父がいなくることがどういうことなのかをお葬式の母を見て理解した。私は母を思って泣いていた。

いつまで泣けば、と泣くことに絶望するくらい泣いたのだけど、この出来事に思いをのせ過ぎると何かがおかしくなる気がして、これまで触らないようにしていた。

しかし、振り返るとこの「父の死」という出来事は私の感性や価値観の形成に大きく影響していたんだと思う。この出来事の前後で、私の生活は変わっていないと思っていたけど。

私は先生を始めとした周りの大人や、クラス全体の雰囲気をキャッチして最適とされるような振る舞いをすることが小学校からずっと、得意だった。家の中でも反抗期を迎えピリついていた姉とおっとりしていてもの静かな弟を見て、よく母の相談相手になっていた。

学校でも家でもそうすることを母が望んでいると思っていた。

授業中、誰も手を挙げないなら私が率先して手を挙げたし、音楽の授業も誰も歌わないから私は大きな声で歌った。その私を目の前に座っていた男子は笑った。

--笑われた時、どう感じた?

笑われた瞬間・・・自分は音痴なのかもしれない!と思った。

大きな声で音痴の自分が歌っているなんて・・・とても恥ずかしいと感じながらも、私は気づかないふりをして歌い続けた。歌をやめて、先生が弾いているピアノの音だけになる方が怖かった。

今思うと、そこはキレても良かったと思う。

なんで笑うんだ!お前はなんで歌わないんだ!なんでお前は手を挙げないんだ!って。・・・それか歌をやめても良かったと思う。

でも、気づかないふりをした。

それは、自分の気持ちを優先して場を乱すことは悪い子のすることだから。

そういえば、母も小学校の先生をしていた。学校の先生の娘が問題を起こすわけにはいかない、そう考えていたのかもしれない。人は完璧ではないし、ご多分に漏れず、自分のそうだったので、色々とやらかしてはいたけど・・・自分のコントロールできる範囲では一生懸命やりきった、と思う。

今思うと、その男子がどうして笑ったのかなんて誰も分からない。

けど、そんなふうにして、私はいい子をし続けることで、自分の微細なもやっとした気持ちに気づかないふりをし続けてきた。

真面目で、場をよくみて、時におちゃらけ、明るさを出し、自分の中の何かや場に起きてる違和感に気付かないふりをしながら、その場がどうかいい方向へ向かうように願って振る舞ってきた。

--「いい子のわたし」はどういう存在?

このいい子の私のことを否定してるわけじゃない。この子はずっと頑張ってきてくれていて、この子のおかげでたくさんの素晴らしい出会いや体験をしてきた。今もすごく大切にしたい感性だ。

しかし、このいい子の「仮面」を被っていることに気づいてしまったのだ。そこからずっと抱えていた、気づかないふりをしていた私のもやっとした気持ちが動き出す。

すると、この気付いてもらえなかった感情たちがトンネルを抜け、解放され始めた。気付いたら、止められない。

--どのようにトンネルを抜けたの?

2024年2月から約3ヶ月間、「存在の解放」をテーマとして創業された沐舎が主宰する「ライフリーダーシップ」というプログラムに参加していた。

詳細はこちら。(私は0期で参加。超おすすめ。ご関心のある方はおかちゃんにDMしてみてください!)

このプログラムの中ではいろんなことが起きていて語りきれないのたけど、このいい子の仮面という点から印象的なことを話したい。

他者からフィードバックをもらってくる課題があった。そこで色んな人の視点から自分を認識したのだが、一つ気になるワードがあった。

「NICE」

これ、これだ!!!ああ、私はNICEでいようとしている・・・と今まで話してきたいい子の自分のことを他者の目を借りて、よりはっきりと掴むことができた瞬間だった。

このプログラムではこれが自分のつけている社会的な仮面(自我・エゴ)だとしたら・・・その奥にある本来の自分(自己・セルフ)とは?というところに向き合っていく。

プログラムに参加している期間、普段はエゴに隠されてしまっている奥にある触れ難いものと共にいることをとことんやっていた感覚だった。

--どういうものと向き合っていた?

私はずっと抱えていた小学校から続く学びの場での違和感とずっと対峙していた。

NICEな私はこの場を主宰する人の意図や参加者の振る舞いをみていい方向に向かうように振る舞うことが使命なのだが、それを意識的にやめてみることにした。

その場で発言を求められてもNICEな自分では応えないようにしていた。

本当は自由でいいはずだ。どんな時もどんな場でも、どんな振る舞いをしたっていいはず。授業中に手を挙げなかったクラスメイトのように、私を笑った男子のように、自由に振る舞っていい。頭では分かっているんだけど。

・・・怖い。とにかく、とても怖かった。

沈黙が怖かった。場の雰囲気ではなく自分の心に今あることを意識して話していたから、場違いなことを言ってるかも、と怖かった。整理整頓して話してないから、意味不明なことを言ってると思われるかも、と怖かった。

それでもその私でいることをやめなかった。

--どんな感覚だったか?

ずっとざらつきの中にいる気分だった。

ざらざらした感触を持ちながらも、あの場だからずっと居続けることができた。ずっとその感覚に居続けて疲労感はあったけど、なぜか清々しかった。

そこでハッとした。もしかして、これがずっと知りたかった自分なのかもしれないと思った。

私は今ライフコーチをしている。コーチングに出会った頃、なぜこんなにもコーチングに惹かれるのか分からなかったけど、とにかく面白くて夢中になった。

コーチングに関わる周辺領域にもとても惹かれた。ゲシュタルト療法、メンタルモデル、成人発達理論、インテグラル理論、NCV、いのちを生きる、コンパッションマインドトレーニング・・・など講座を受けたり、本を読んだりして今も学び続けている。

もっと知りたい、もっと知りたい・・・そんな思いが根底にあった。

--何をそんなに知りたかったのか?

それは、この自分を知りたかったからかもしれない・・・とこのライフリーダーシップを完了して、たどり着いた。この視点に立つと、すべての学びが一つにまとまるような感覚だった。

この清々しさは私にとって”わたしでいる”という感覚だった。この感覚を知ることができただけでとても幸せだった。

今もこの”わたしでいる”感覚には揺れがあるので、いつでもその感覚でいれるわけじゃないのだけど、成人発達理論の言葉を借りるなら「重心性がある」ということだ。

私はこのプログラムを通して自分の成長、発達を実感している。これまでのわたしを含んで超えていくために、この揺れも必要なプロセスとして歩んでいる。

--”わたしでいる”とは?

…”わたしでいる”とはどんな感覚なのか。言葉にすると表現しきれない部分があるなと思いつつ、少しだけ出してみようと思います。

”わたしでいる”とは、自然な反応をするわたしである。嬉しいことも悲しいことも、楽しいこともキレることも、自然な反応として表現するわたしでいること・・・のような気がする。

素なわたし。素っ裸なわたし。一番小さいわたし。自己一致してるような感じ。

この私でいることは、慣れてくると感覚としてはすごく楽でもある。余計なエネルギーを使っていない感じ。

自分の願いに純粋になっていると言えるかもしれない。私の願いは”ありのままの自分で生きる”とか”不完全さを愛する”が大きいのだけど…なんだか、全体性を取り戻すようなそんな感覚だ。

もう少し解像度上げたいけど言葉にすればするほど遠のいてしまう気もするので、この辺でご勘弁〜笑

もしこの”わたしでいる”が気になる人はぜひお話ししましょう。生身のわたしが伝える方がもっとあなたが受け取る情報量が増えるはず。何より私の話し方や雰囲気に全てが詰まっているように感じます。

さて、そろそろ締めようと思います。

なぜこのnoteを書き始めたかというと、今の私を残しておくことでセーブポイントを作るが目的でした。では、人生のセーブポイントを作って終わりにしようと思います。

--未来のわたしへ一言

大丈夫。あなたはいつでも”わたしでいる”感覚に立ち還ることができるよ。

いただいたサポートは、あなたに届けるコーチングをより磨くために使わせていただきます!