痛みを記憶する。

 

26歳になってまだ半年と少し
過ぎたところだが、


 26歳の間に、

もう2度も失恋した。



 1度目は、
付き合っていた恋人に自分から
別れを告げ、去ったこと。


2度目は、
長年想っていて答えを出さずにいた人に
思い切って告白をしてふられたこと。

 

 片方は、恋人関係からの別れで、
もう片方は片想いからの別れだし、



 前者は連絡手段全て切れたが、

後者は告白して玉砕しただけなので
わたしのなかではもう落ち着いて
友人関係(とは言っても特に連絡することもないし、相手は気まずいかもしれないが私はもうスッキリしている)に戻っただけ。




 こんなことを書いておくのは、
恥ずかしいことかもしれないけれど、


表現者(文字を紡ぐ者)として、
学習者(文を学ぶ者)として、

この感覚、

を身体で覚えておかなければいけない

とおもった。

そして、その体感を、忘れないように
言語化しておかなければと。




失恋と一言に言えど

前者と後者では

少し匂いの違う感覚だった。



それでもどちらの時も、

失恋した時のあの自分の感覚を

覚えておかなきゃいけない、

そう思ったのだ。


それは、女優さんがよく

恋愛した時、失恋した時、

辛い経験をした時、
楽しいことがあった時

何かあるたびに、
この時はこういう感覚で、
こうやって涙が流れるんだ

なんて鏡で顔を確認しにいってしまう、

と、
女優あるあるでお話ししていたのとは

少し似たような感じかもしれない。

(同列に並べるのは、
申し訳ないのだが。)



恋愛も、

 今までだって
何度となく失恋してきたし、
その時々辛かったりした、
という記憶はある。

けれど、上にあげた2回ほど、

特に前者(恋人関係の解消)ほど、
心が激しく感覚的な痛さを伴って


身体の中で血があふれ

見えない赤い血がスーッと垂れて

痛いよ、痛いよ

と思うような、

 黒板を爪を立てて引っ掻いた音を
聴いた時のあの、

どうにも気持ち悪く、耳から

身体中が痛みに反応してしまうような

あんな痛みは、
26歳で初めて経験した。
それも2回も。


もっというと、
片想い相手からの失恋よりも、
恋人関係からの別れの痛さが
強かったから、
たまたまその痛さの中で片想い相手に
ふられたから、痛く感じている、
のかもしれないけれど。



けれど、それでも

26歳になって、これまでの恋愛

片想いが多いにしろ
多少の恋愛や付き合いもしてきて、


まだこんな、
痛みを身体中に感じるとは
私自身も、想像していなかった。


いやむしろ、この2つの恋愛以外では
これまでの恋愛で
このような形の痛みは、
経験してこなかった。


だから、26歳にして
初めての感覚に戸惑った。



それも、2つの痛みは、
少しだけ違うとはいえ、

同じような痛みを3〜4ヶ月の間に
2度も経験したから。

だから、ひどく戸惑った。


 まぁとにかく、
別れた時も、失恋した時も

2度とも、痛いと感じた時、


 この痛みを、

 心が痛いと感じている

 この感覚を

 感覚として記憶して

 おかなければならない。

 感覚も、時が経てば

 忘れてしまうから

 出来うる限り

 言語化して

 痛みを思い出せるように

 しておかなくてはならない

 


 なぜかそう思ったのだ。

だから、今は、もうどちらの恋愛も、

特に片想いしていたのをふられたのは、

わたしのなかでは、
その先を考えられなかったから、
伝えずそのままにしていたのを、

言葉にして伝えて、
きちんと言語化された
結論をつけてあげるのが、私にとって
いいのだろうと思っていたので、

ふられた後少しの間

あ、終わったな、とおもっていた
くらいでなにも思ってはいないのだが。


特段、もうなにも思わない。

 それでも、ふられた直後は
痛みはあった。

でも、ああ、悲しい悲しいと
思うというよりかは、


その時の、痛みを感じた時のわたしは、
恋人と別れた時の痛みと同じような、

「この痛みの感覚を、
わたしのこの身体の脱力感や、
黒板をきーっと引っ掻くような音が
耳に響くこの感覚や、

それに思わず耳を塞いでしまう
血だらけの身体になったような
こういう痛みを、
きちんと言語化して
記憶していなければならない」

という意識が強かった。

それでもどちらかと言えば、

長く引き伸ばしていたことに、

きちんと言葉で自分の気持ちに、

ケリをつけてあげられた、

そういう爽快感もあった。


ただ、直後の数日間は痛かったし、

それが痛かったのは、

その前の恋愛をまだ

引きずっていたからだと思う。


26歳の最初の失恋の痛みは長かった。

むしろ2度目の、

自分の気持ちへの

ケリをつけてあげる失恋がなければ、

傷だらけのままに

過ごしていたかもしれない。



 なんだか、
言葉がうまく出てこないので、

よくわからない内容に、なっている
気もするが



 こういう感覚、

 この痛みを記憶しておこう、

という感覚、他の人は
経験しているのだろうか、、、。

 私は恋愛においては、初めてだった。

 


今までの恋愛は、むしろ、

失恋したり恋人関係から解消して
自分がすごく好きな相手だったとしても

長い時間をかけて、自分の気持ちに
折り合いをつけていく、それだけ。
というのが多かった。



 痛みは、忘れようとするもので
できれば、はやくきえてほしいもので、
覚えておこうなどと、
おもったことはない。し、


 このような、身体の中を、
キーーーーという音を立てて、
引っ掻かれているような、

 黒板に爪を立てて
引っ掻いている音を聞いているような

嫌な感覚、は感じたことはなかった。



また、

 失恋した時の今回の気持ちや、
この身体の感覚、
嫌な音が耳に響く感じ、
自分の喉にご飯が通らないなかで
ご飯を食べた時の、
喉を食べ物が通っていく様、

そういうもの一つ一つに意識が
向いたのは、
多分、前述した恋人と別れた時、
初めて体験した。

(とはいっても、そもそも、恋愛で
ご飯が喉を通らないなんて昨年初めて
経験したのが)


 あまり、自身のプライベート、
特に恋愛関係を書くのは、

相手にも失礼だし、
恥ずかしいことだろうし、
気が進まないなという気持ちも
なくはないのだけれど、


 結局のところ、
感情として喜怒哀楽を最もつぶさに、
体感としてわかるのが、

恋愛、特に哀の感情を、
感じられるのが恋愛だったから、
例に出すことは多くなってしまう。



私は

痛みに限らず、どんな感情でも
今のこの感情、感覚を、
今書き留めておこう、表現しておこう

ということは実は昔からしている。



今思えば、大変恥ずかしい話だが

小学生の時は授業で
物語制作をしたのが楽しくて
物語を書くのが好きだったし、

中学生の時は友人の影響で
歌詞や詩を書いたこともあるし、

高校生大学生くらいの時は
短歌や広告コピーを見るのが
好きだった。



日記も昔からつけていて、
高校生以降は忙しくなったので
手帳にメモをしておく程度、
大学院生以降は
思い出した時に遡ってメモしたり、
一言だけ書き残しておく、

くらいなのだけれど。


でも、そういう風に文字に触れてきた。



だから昔から、

その時の感情や感覚を

言葉にしておこう 

という意識は強かった気もする。


 失恋だけではない。

 祖父母が亡くなった大学1年の時、

 自身が人の悩みに押しつぶされていって苦しくなった時、

 入院した時、

 家が(兄弟の反抗期で)荒れていて
とても苦しかった時

 前に自殺の話を書いた時もだしたが
死にたいなぁ、と感じた時、

 生きていたくないなぁとおもった時、

 過食になって苦しみながら
食べ物を喉に通した時

 友人と喧嘩した時、


 いろんな時に様々な背景をもって
その時々の思いを抱えてきたが

 それぞれに言語化してきた。


その時に残した言葉を
見返すと、その時の自身の感情や
感覚も、少し蘇ってくる。



そして、この言葉にしてきたことを
今思うなかで

 感情は一般的には、

喜怒哀楽と

4つに振り分けられるが、

本当のところ、

その4つは、

区画のあるものではなく

限りなく境界線のない

グラデーションのような

いやむしろ、

喜に楽が、

楽に哀が、

哀に怒が、

怒に喜が、

抱懐するような

抱き合わされたもので

あるんだな、

と改めて実感する。



 楽しい時は100%楽しいだけ、
の感覚ではない。

 楽しさのなかにまじる、
寂しさや虚しさがある。

 悲しい時、「悲しい」という言葉
だけで表現できないのは、

 悲しみの感情のなかには、
楽しさの記憶や嬉しい記憶、
怒りの感情もあるからかもしれない。

 そんなふうに感じた。



 そして、その感覚は、

たとえ同じ、
哀のカテゴリーに入る感情でも、

その感情に至るまでの経験や感情の波は
同じ失恋でも全く違うわけで、

同じ恋愛相手の、同じ楽の感覚でも、

その感情を伴った時の、
自身の状況や環境によって、
少し味は異なるわけで、

その一つ一つを、一括りにして
楽しかった、
悲しかった、
と分類してしまうのは何か違う、

そうおもったのだ。



 それは以前、自殺の話を書いた時、

”positive suicid“と

“passive suicid“は違うのでは、

と書いた時と同じように、そう思った。



 さて、それで、26歳の間に、

もう2度も恋が終わって

強い「痛い」感覚を、経験したのだが、

その時、ふと思い出した。

 


 以前にこの記事を書いた時、

記憶は五感と結びつく、

と書いた。

 この記事の時は、

味覚と記憶の結びつきで

その時の感情をも思い出されると
書いたけれど


 感覚の記憶と感情の記憶は、
その背景を伴うことで
色濃く、深く身体に刻まれる。



 頭で覚えているのではなく、

 身体が、その感覚と感情を、

 痛さやワクワクを覚えている。 



この「感覚を伴って」というところが

何においても、 ビジネスでも、

主軸になる。



 デザイン思考のはじめは、
empathy(共感)だし、

 ティール組織の中核、
ホールネス(全体性)の考えは

合理的でなくても、

感情の動くところに
ビジネスのヒントがある、


つまり、
これまでのオレンジ組織で
排除されてきた

感情的・直感的・理性的・精神的なもの、自分の深い内側にある自我、
男性性や女性性なども重要だ、

としている。


 26歳になって、

痛みを感覚を伴って記憶しておこう、

なんて思ったのはなぜなのか、

わからないけれど、

 それぞれの経験による、
それぞれの痛みを覚えておくことが、
今、ココに生きている自分を
記憶しておくことでもあり、

 他者が痛みを感じている時に、

その痛みに

empathize(積極的共感)

する力になる気もする。



ちなみに、積極的共感に近い言葉で、

積極的傾聴
という言葉が心理学にはあるが

 「積極的傾聴(Active Listening)」は、米国の心理学者でカウンセリングの大家であるカール・ロジャーズ(Carl Rogers)によって提唱されたもので、

カウンセリングが有効であった事例に
共通していた、カウンセリングで重要な
聴く側の3要素として

「共感的理解」

「無条件の肯定的関心」

「自己一致」

をあげ、これらの人間尊重の態度に
基づくカウンセリングを提唱した。

 つまり、どんな内容の話でも、
相手の立場になって無条件に
聴きいれる

 ことをいうのだが、これには

想像力と傾聴力が必要になる。

 

積極的共感も、

想像力が必要だ。

 そして、想像できるということは、
(直接的であれ、
本などを通した間接的なものであれ)
経験したものだからなのではないかと。




 先にも書いたように、
同じような経験をしても、
人によって感情や痛みは異なる。

同じ人間でも、
その感情に至るまでの経験や期間、
それを経験した時の年齢、相手、
状況によって全くその内情は異なる。

 自分自身の恋愛だって、時が経てば
なぜあんなに苦しんでいたのだろうとか
思ってしまう。



 でも、例えば失恋した

きっとその時は、

 ものすごく痛い。

 その痛みを、例えば今回の痛みは、

身体の中で血があふれ

身体の中を、
キーーーーという音を立てて、
引っ掻かれているような、
黒板を爪を立てて引っ掻いた音を
聴いた時のあの、

耳を塞いでもその音を想像して
身体がゾワっとする

あの時の感覚みたいな心の
痛みの感覚を、

26歳の、今のこの状況の自分の、
この心境と生活のわたしで
経験した痛みの感覚を
覚えておかなければならない。


それが、その痛みの感覚を、
身体に刻んでおくことが、

これから誰かと対峙する時の私を

その痛みを経験する前の私とは

別の感情へ、経験へ結ぶのだろう。

時間が経ったが

今も、彼と別れた時の自分の、
あの身体がちぎれそうだった

自分の痛みの感覚は、

当時の私の心理的な怪我の痛みを
思い起こさせるし

失恋した時の、心のダウンした感覚は
痛みと共に記憶されているし、

それだけではない。


昔、

 死にたくなった時のあの感覚や
生きているのが辛かった日々のあの、
ゆらゆらと張り詰めた感覚、

 過労で入院するに至るまでの、
誰にも言えなかった苦しさの感覚や

 その後1人で感じた孤独感、

本当は無理してはいけないと
わかっているのに追い込まれ、
思考を停止させていくあの焦燥感や

進路や部活動での大会の結果の決まる
一大事の前の、
緊張や興奮、

 そういう記憶はすべて、
感覚とともに私のどこかにしまわれて、

記憶を思い出した時には、
感覚もともに思い出すし、

感覚が蘇った時には、
その当時の記憶が
まざまざとよみがえる。



 
喜びや楽しさを感じる時には
誰かと分かち合いたいと、
自然と強く思うものだろう。



けれど、本当のところ、
他者の相談を聞いていても、
相談事には、感情のなかでも
悲しみや怒りが伴うことが多いし、
他者に相談したいという時も、
結果的に相談するにしろしないにしろ

悲しみ、怒り、寂しさ、辛さ、苦しみ
という感情の時ほど、

誰かに共感してほしい、

と思うものな気がする。

そして、その時には、
聴く側には、

empathizeすることが求められている

と思う。

 

 他者の痛みを聞く場合にも、
 いやそうでなくても
他者の立場を想像する場合にも


自分自身が経験した痛みと
重ね合わせるときと、そうでないときは

感じ方、共感の仕方は異なる。

 
当然、人が異なれば、
自分とは全く異なるので

「気持ちわかるよ」などとは
簡単には言えないけれど、

経験した痛みを忘れずに

記憶していると

似たような状況にいる人が目の前に
いる場合、

こういう感じかな、
と想いを馳せる時、

過去の自分の痛みや悲しみや孤独感が
経験の記憶とともに戻ってくる。

以前にこういうことをメモしていた。

 これは、2017年頃から強く
思っていたことだけれど、
このご時世になって、
一層感じる。

結局のところ、

痛みも辛さも大変さも、

自分ごとになった時にしか

強く感じられない。

でもそれならば、

自分ごとにして、
想像することはできるだろう。

 私は二回味わった失恋の時の痛みを
今も思い出せる。

 言語化した、言葉で感じた時の
痛みや辛さや悲しさや苦しさは

自殺しようとした時の
張り詰めた気持ちも、

祖父が亡くなった時の自分の無力感も

ただひたすらに涙がでて、

ああもう、あえないんだ、

もういないんだ…という事実だけが

頭の中に溢れたあの気持ちも、

日常の中で薄れていても、

その痛みを言語化できる範囲で
してきたものは、

当時の言葉を、文字を、その筆跡を
その時の私の経験を、思い出を

頭から引っ張り出せば、

感情ごとすべてイマココのわたしに、
よみがえる。


 長く書いたわりに、
何を書いているのか
わからなくなってきたが、

 2度の失恋のそれぞれの時の、

痛みは、もう立ち直っている今でも、

思い出せば、身体の内側から

血が溢れ出すような痛さや

耳をつんざくあの音を感じる痛みの感覚

とともに、

おそらくこれからもずっと、

きちんと刻まれつづけると思う。




 今は、世の中がざわついている。
世界が病魔におかされて、
誰もがおびえ、不安を感じている。


 亡くなった方もたくさんいる。
悲しみに暮れるなかで、自分自身も
不安な状況にさらされている方が
多くいる。

 それぞれにそれぞれの人生が、
それぞれの苦しみが、悲しみが、
寂しさがある。

 それは、わかるよ、なんて、
簡単には言えないし、

自分自身が病におかされるまで、
病魔や危機や命の危険が、
目の前に迫るまで、

結局のところ、

自分ごとにできない

というものだろう。

でも、他者の不安に寄り添う時、
他者の苦しみに寄り添う時、

自分自身が苦しかった時の、
痛みの感覚を想起して、
その感覚を持って心に寄り添うことは
できるのではないだろうか。

 今の時勢に限らない。

これからも、
それぞれの人生を生きるなかで
出会う人々が、

悲しみに、苦しみに、辛さに
悶えているとき、

その隣にいるわたしは、
その人の悲しみの気持ちに、
苦しみの心の怪我の痛さに、
身体の内側から出血するような辛さを

自分がそうだった時の
その痛みの感覚を
思い出して、

人と接することができるはずだと。

 これからも、人生きっと、
たくさんの喜び、
楽しみを味わうだろう。

 同じく悲しみも寂しさも痛みも、
きっとたくさんまだ味わうことになる。

それでもそのたびに、
その痛みの感覚を記憶しておきたい。


そして、隣にいる誰かの心が、

痛いと叫んでいると気づいた時、

その痛みを想像し、

寄り添える人間でありたいと。

 ただし、決して自分自身の命を
削りすぎないように。

そして、これからも、

 その年齢の、その状況の、その時の
私にしか味わえない痛みの感覚を、
強く刻んでいきたい。


痛みは、

忘れることがすべてでは

ないのかもしれない。


 こうして、感情と記憶とを結びつけて

痛みを覚えておくことも、

その痛みを負った経験をした私を経て

今のわたしに至るのだから、

なくてはならないものだ。



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#ティール組織

#想像力

#傾聴力


 この記事は、

研究の話ともリンクするため

どうするか悩んだが、


とにかく今、かけるだけの言葉で

残しておかなければならない、

と感じたので

思いつきに載せて

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