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似合わなくなったら手放していいんだよ。

昔から、
皆と仲良くしなさいと言われ、
人を嫌いになってはいけないと思い、
一度友達になれば、
縁を切ることができなかった。

一度できた人間関係(友人関係)を
切ってはいけないとおもっていたし、
人を嫌いになってしまう自分は、
すごくいけない気がしていた。
本当にすこし前まで。

でも、洋服と人間関係を
重ねてみたら少し気持ちが
整理された。

服は、
成長すると、小さくなったり
似合わなくなったりして捨てる、
処分する洋服が出てくる。 

人間関係だって、
洋服と同じようなもの
なんじゃないかと思うようになった。

1. 似合う服が変化した

まず服の話から。

幼少時に限らず、

大人になってからも

なんかもう似合わない、

あの頃はあんなに

着ていた服が、

好きだった服が、

もう私には

似合わなくなったとか。 

そんなことってある。

大学生になる頃までは
親が買う服を着たりして、
やけに女の子っぽい服ばかり着ていた。

だんだんと自分の背丈や
スタイルに合った服がわかってきて、
いろんな服を着てみて、
失敗したりしながらも、
少しずつ少しずつ
自分に似合うものがわかってきたし、
その、似合うものも、
年齢を経るにしたがって
少しずつ変わってきた。

私は大学3〜4年頃まで
本当に服にあまりにも
興味がなかったし、どう選べば
いいのかもよくわかっていなかった。
だから、2〜3年生頃までは
母が買ってきた
THE女子大生みたいな格好を
そのまま着ていた。
ひどく受け身だった。

その次は当時の好きな人が、
好きと言ったトラッド系へ、

そしてそのあと、自分の気分や思いで
トラッド系からラフ系へ、

やっと似合う系統を見つけて
ラフからコンサバ系へ。

そして、ついに最近、コンサバ系から
系統で選ぶというより、

自分に似合う色や
自分な身体のラインにあったものを
選ぶようになった。

今はだいたい、
自分にぴったりとはまるサイズで
トータルのバランスが心地よいと
思うものが合うようになってきた。


2. 断捨離

いつぞやか、ミニマリスト、とか
断捨離
という言葉が流行ったけど、

断捨離というのは、
もともとはヨガの思想で、
ヨガの行法

断業(入ってくる
いらないものを断つ)

捨行(家にずっとある
いらないのもを捨てる)

離行(モノへの執着から離れる)

というものらしい。

昔から、
たくさん友達がいるね、
誰とでも仲良くなれるよね、
と言われてきたし、
相手に嫌われさえしなければ、
私から嫌うことも
さほど多くはなかった。

友人知人の関係において
自分からなかなか縁を切ることが
なかった、嫌いになってはいけない
と思っていた私は、

周囲の人間関係や友人の友人だから
とかそんな理由で切りたい人間関係を
切れずにきた。 

もともと、何事も断るのが苦手、
親にも家族にも友人にも恋人にも
うまく、嫌だと伝えられない、

そういう積み重ねが、
上手に人間関係の距離を保てない
原因にもなっていた。

どのくらい断れないかというと

毎日、半年くらい遭っていた痴漢に、
「でもここで私が声を上げたら
この人、生活失うんだよね」
と思ったり、
ネットストーカーになっていた
知人には

「でも、きっとそういう気はないのに
私が嫌だとか言ったら、それって
私の被害妄想で、大きな話になってしまうかも…」と
それらを我慢してる方がいいんだ、
と我慢するくらいには。

 相談した友人には
「犯罪犯したやつの家族や人生を
心配して自分が声を上げるのを
我慢する理由がわからない」
と一蹴されたけれど。
(とにかく、そのくらいお人好し
だった。)

まぁ、
痴漢に関していえば、
声を上げることで
周囲の人の注目を一瞬でも浴びるのが
怖いという理由が
大きかったのだけれど。

(ちなみに、もうそういうことに、
出遭うこともほぼ0になったから
書いている。)

 結局、そんなこんなで、
断ることも嫌ということもできない私はあまり自分にとって良くない
付き合いや、成長しない馴れ合いだけの
人間関係も、

でも長年、友達だったから、
他にも共通の友人がいるから、
 彼女だって、彼だって、
別に悪い人、ってわけじゃないから
とか
なんとか

言い訳を見つけては、
付き合っていた
し、

そういう仲の1人の子に、

「私は、人を嫌いにならないの。
だって、誰だって悪いところも
あってもいいところあるし、
人を嫌いとか言って付き合わないのは
子どもだと思う」と言われたりして、
私も確かにそうかも、と
思っていたりした。

実際、完全にいやいや付き合っている
というよりかは、どこかでやはり
合うところがあって、
そこに自分もおさまっていたから
付き合いが続いたのだと思う。

 けれど、ここ数年、
私は急激に変わってきて、
特に2018年に、
大きな関係を私の方から
シャットアウトしたら
(とは言っても共通の友人は
繋がったりしていたので、
話題に出されたりするのだが)

まず、
「知人」程度の距離の人に、
嫌だなと思ったら距離を遠ざけ、
またはさようならするようになった。

それから、「お世話になったから」
という理由で、
お節介を押し付けてくる人とも、
上手にフェードアウトできるように
なった。

そうしていると、
少しずつ
 「友人」でも、今は少し距離を
置きたいなと思う人と、
距離を取れるようになった。

誘われたら断れず、
予定で埋め尽くされていた私の手帳に、
少しずつ余白ができ始めた。
だんだんそうしていくと

「たくさんの、
私を大切にしない人に、なんと多くの
時間を割いてしまったのだろう」と
感じるようになってきた。

そして、「どうして大切にしたい人が
寄り添ってくれた時、他の、
私を大切にしない人に、
時間や心労をかけすぎて、
大切にしたい人が
近くにいてくれたことに気づかないまま過ごしてしまったのだろう」と気づいた。 

それでも、職場が、だとか
他の友達関係が、だとか
なんだかんだいきなりバサーっと
もう要らない人は全ブロック!
とまでいけないあたりが私だったり
するのだが、自分にできる範囲で
少しずつ“ケリ”をつけるように
しはじめた。

すると、しばらくして、
親とも少しずつ距離を
取るようになってきた。

何年も続いた関係を、
断るのが苦手な私が
いきなりばっさりと切るのは難しい
けれど、私なりに少しずつ
距離を置いたり、
自分からはアクションを起こさなく
なったりし始めた。

そうして、少しずつ人間関係を
剪定し始めたら、今まで
「みんなと仲良くしなければダメ」
「人を嫌ってはいけない」 
「人とうまく付き合えないのは
あなたの度量が足りない」
といった言葉から
解き放たれてきた。

 さて、
そうなってから気づいたことがある。

私は「友達が多い」けれど、
私にとって「相談したい」だとか
「この人には友人としての気遣いで済む」とか、そういういわゆる、
世間で言う「友達」「親友」みたいな人は、たいしていなかった。

こんなこと書いたら、
周囲の友人に、
「え、私のことそんな風に思ってたの?信じられない!」
なんて言われるかもしれないけど、
私は、
人に自分を委ねるのが
とてつもなく苦手なんだ、
本音や思いやワガママをぶつけて、
その人とぶつかる、
ということを避けるんだ

と最近気づいた。

思えば恋愛もいつもそうだった。

「友達だった時の方が、
色々話してくれたよね」
と言われたこともあるし、

彼氏になったら、
その人に言われる
一言一言に神経すり減らして
疲れてしまったこともある。

言いたいことやワガママや甘えたい
という思いをうまく表現できず、
我慢に我慢を重ねているうちに、
客観的に見て蔑ろにされている
状態になったり。

結局、どれもこれも
よく考えると、私が、
心開いてなかったな、
信用し切れていなかったのかな
みたいな結論に至ったりするのかも。

(という事実も、友人から
「お前は、変な遠慮とか、
人の目を気にしてとか多すぎなんよ。
彼女なんだったら、もう少し、彼氏に
言いたいことや主張ぶつけてええんよ、そういうことしないから、飽きられるんじゃね?」と言われて、
ああ、そういうことかもしれない
と気づいたのだけど。)

そして、結局、今まで
自分からは関係を切らなかった
=相手に見限られれば相手に切られる
受動的な人間関係で生きてきた。

でも、

情報があふれている世の中。

受動的のままでは、
溢れかえった情報に飲み込まれてしまう。
だからこそ、捨てることの方が大切。


まさに、断捨離、が大切なんだ。

昔、ある人にこんな言葉を言われた。

思い込みを捨てる。
いろんな選択肢があるからこそ、
捨てることが大切。

人間関係でも、同じなんだと思う。


3. 合わなくなったら
手放していい

先にも書いたように、
人は成長するにつれ、
合わない服が出てくる。
そうなると、きっと大多数の人は
売ったり、捨てたり、
何かしらで処分するだろう。 

人間関係も、
大概そんなもんなんじゃないかと
思うようになった。

昔着ていた洋服が
似合わなくなるように、

人間も、成長するにつれて
合わない人が出てくる。

逆を言えば、
いつまでも同じ人たちと居られる場合
お互い高めあっていってる
相乗関係にならない限り、
どんどん自分が堕ちてゆくばかりだ。

もしくは、別に相手や自分が

悪い人ではなかったとしても
歳をとって経験が増える内に
合わなくなっていく人はいる。

詳しく覚えていないが、昔
こんな言葉を言ってる人がいた。


「人間関係において、
なんか違うという直感は
だいたい正しい。
 なんか違うと思ったら、
もうあとは一目散に逃げるんだよ」 

だいたいこんな感じの言葉が
並んでいた。
(詳しい人いたら教えてください)

持つものはそう多くなくていい。
服も、人間関係も。

自分の手中におさまる範囲で、
本当に自分が幸せになるものを
きちんと大切にして、
それらを丁寧に愛おしむ時間を保つ
そういうことが、
大切になったりする。

結局、周囲を気にして、にしろ
体裁を気にして、にしろ、
自分自身で人間関係を
剪定できない人は
時間を上手に使えないし、
人の時間を生きていることを
致し方ないとしているし、
だいたい魅力も減る。


そして、まともな人はそんな人から
離れていくか、優しい人なら
何度も何度も
今のあなたは良くない、
今のあなたはダメだ、
と伝えてくれる。


そういう周囲の人が
いてくれる間に、ちゃんと
自分の人間関係という庭を
剪定して綺麗にして
常に目の行き届いた手入れを
していかなければいけない。

 受動的なままではなく、
主体的に人間関係を築かなければ
結局は、主張することも、気持ちを
ぶつけることもできない。

マッキンゼーの日本支社の
社長だった大前研一氏は
こんなことを言っていたそうだ。

「人間が変わる方法は3つしかない。
1. 時間配分を変える
2. 住む場所を変える
3. 付き合う人を変える
この要素でしか人間は変わらない。
最も無意味なのは、
「決意を新たにする」こと。」

歳を経るごとに、
そして、こうして人と距離を保ち、
きちんと剪定することが大切だと
気づき、周囲の人を見て、
仕事が丁寧な人とは、だとか
丁寧に生きている人とは
というのを感じるにつれ、
この言葉を、体の内を通って
理解できるようになってきた。

自分に似合う服は、
着方次第で、実際よりも
スタイルよく見せてくれたり、
少し魅力的にみせてくれたりする。
そうなると、少し自信を持つことが
できて、自然と
背筋を伸ばしてみたりする。

 人間関係でも、今の自分に
必要な、自分をもっと魅力的に
できる相手、尊敬できる相手と
共にいると、自然と
その人の隣にいて
恥ずかしくない自分でいよう、
私はこんなところが魅力なんだ、
自信を持とう、
と自然と背筋を伸ばして、
前を見て笑顔になれる気がする。
決して、無理するというわけではなく。

 「みんなと仲良く、」
という言葉は、
こう解釈すればいいんじゃないかな。

 「あえて人を嫌いにならなくていい。
合わない人がいたとしたら、
合わない人が出てきたら
近づきもせず、
その人とは、自分がきちんと
共存できる距離まで離れればいい
」と。


 自分にとって苦手なあの人は、
誰かにとっては、大切な人だったり
魅力的な人だったりするかもしれないし。

 でも、だからと言って、
もう自分に合わなくなった関係を
いつまでも手元に置いておく必要も
ないんじゃないかなと。

 自分にぴったりとあう服や
人間関係は必ずどこかにあるから。

 
どんな出会いでも
それがマイナスにしろプラスにしろ、
きっと、何かしら得るものが
あって、だから剪定するのだから
さようならする関係には、
心の中で、「ありがとう」といって
そっと一目散に、去ればいい。
自分から。

自分が、魅力的であるように、
そしてその魅力的な服(人)を
纏える自分(一緒に居られる自分)
でいられるように。

“私”というものを、
丁寧に愛おしんで生きられるのは
“私”しかいない。

そして、大切にできる関係を
愛しんで生きる方がいい。

もし、仮に剪定して、“刈った”
その服が(その人が)
本当に大切なものなら、
きっといつかまた巡り逢えるから。

#人間関係
#思いつき以上思考未満
#断捨離
#人と上手に付き合う
#対人関係の悩み

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