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アイルランド建国の父を育んだ者たち――パトリック・ピアースの「父と母」

パトリック・ピアース。アイルランド語名はポードリク・マク・ピアラシュ(Pádraig Mac Piarais)*1。アイルランド好きで、この名を知らぬ者は恐らくいないだろう。

この男は、詩人・教師・編集者の顔を持つ急進的革命指導者として、1916年4月24日、ジェームズ・コノリーらと共に兵を率い、時の支配者であったイギリスに反逆した。イースター蜂起と呼ばれる事件である。

圧倒的な戦力を誇るイギリス軍を前に、反乱軍はわずか1週間で降伏。ピアースはイギリス軍に拘束・処刑され、36歳の若さでこの世を去った。

彼をはじめとした16人の蜂起指導者たちは、後にアイルランド独立の英雄として祭り上げられ、今日でも彼らの神格化は続いている。

イースター蜂起のリーダー、アイルランド共和国の初代暫定大統領、パトリック・ピアース。このシリーズでは、アイルランド建国の英雄を育んだ家族について、かる〜く紹介する。

イギリス人の父…偏屈者のジェームズ・ピアース


パトリック・ピアースは上流の出ではないが、中流の家庭で、慎ましながらも衣食住に不自由のない暮らしを送っていくこととなる。

家族構成は以下のようになっている。

父:ジェームズ
母:マーガレット・ブレディ
姉:マーガレット・メアリー
弟:ウィリアム(愛称ウィリー)
妹:メアリー・ブリジッド

※他にも連れ子やいとこがいるが割愛。

まずは、父ジェームズの人生についてかる〜く見ていこう。

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パトリックの父親、ジェームズ・ピアース。彼は1839年12月8日、ロンドンのブルームズベリーに住む、労働者階級のピューリタンの家に生まれた。

家は非常に貧しかった。父と母、そしてジェームズを含む3人の子どもたちは、「たった1枚のベーコン」を囲んで食事をとることもあったという。ジェームズは十分な教育も受けられないまま、11歳ごろから働きに出されたようだ。

しかし、彼はいつしか彫刻家になりたいと強く願うようになった。のちにジェームズは、友人にこのように説明している。

私はいろいろなことをやってきたが、いつも彫刻家になりたいと思っていた。教会に行っては彫像を、君が聖人と呼ぶものを見ていたよ。16歳くらいだったかな…そいつに心を打たれたんだ。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P8より

ジェームズは仕事を転々としながら、移住先のバーミンガムにある美術学校の夜間教室でデッサンを学び、やがて見習い彫刻家になった。

そしてイングランド中、ときにはダブリンの教会・建物の彫刻を手掛けながら、着実に技術を身につけていった。教会の備え付け家具を提供するJohn Hardman & Coというバーミンガムの企業に採用されると、主任彫刻家に任命されるまでに至った。

1863年4月28日には、18歳のスーザン・エミリー・フォックスと結婚。1864年ごろには、バーミンガムからダブリンへと移住したようだ。

一見サクセス・ストーリーに思えるが、最初の妻スーザンとの結婚生活は、必ずしも幸せとは言えないものだった。

1875年、ジェームズは職人としてついに自身の会社設立にこぎつけるものの、彼自身のお金回りの疎さから、生活はなかなか安定しなかった。

さらに妻スーザンは、メアリー・エミリー、ヴィンセント、アグネス、キャスリーンの4人の子供たちを産んだが、アグネスとキャスリーンは乳幼児期に死亡。スーザンも脊髄の炎症によって、1876年7月26日にわずか30歳で死んでしまった。

ジェームズは生き残った二人の子供たち…11歳のメアリー・エミリーと、9歳のヴィンセントを抱える寡男になってしまったのである。

お先真っ暗な状況と言えるが、ジェームズには以前より交際している女性がいた。

郵便局と新聞販売業者のアシスタントとして働いていた、パトリックの母となる女性、マーガレット・ブレディである。

マーガレットは伝統的なカトリックの農家にルーツを持つ生粋のアイルランド人で、ジェームズとは全く異なる背景を持つ女性だが、二人は手紙のやり取りなどを通じ、順調な交際を続けた。

そして最初の妻が死んだ15ヶ月後、1877年10月24日に結婚。

こうして、マーガレット(マギー)、パトリック、ウィリアム、メアリーの四兄弟が誕生するのである。


さてここで、ジェームズ・ピアースの人格面についても記そう。

彼は夢を追い求める強いハングリー精神に加え、当時としては大変自由な思想を持つ人物だった。

たとえば、ジェームズはイギリス人だが、大英帝国による一方的な統治を良く思っておらず、イングランドはアイルランド人の意志を反映するべきだとして、内政自治の導入を求めていた。自治法への支持を集めるため、プロテスタントの集会で演説をしたこともあったという。

さらにはピューリタンの家に生まれたにもかかわらず、無神論者だったと考えられる証拠がいくつも存在する。日曜日も仕事をするなど、キリスト教徒の決まりを守ろうとせず、周囲の人間はジェームズの信仰心を疑っていた。

妻マーガレットの信仰心を茶化したこともあった。ジェームズが喉の感染症に苦しめられていたとき、マーガレットが「早く良くなるよう神に祈りました」と言うと、彼はこのように返した。

神にあれをお願いします、これをお願いしますなんて言ったって、病気は良くならないし終わることもないよ。悪いままでいるほうが、彼はお喜びになるんじゃないかと思うね。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P18より

「Humanitas」というペンネームで、神の存在を否定する冊子を出版した可能性も指摘されている。元従業員がパンフレットの出版に懸念を表していたなど、根拠となる証言が複数残っており、ジェームズの手による可能性が高いと考えられている。

ジェームズは1870年にプロテスタントからカトリックへと改宗しているが、それも信仰心からではなく、単にダブリンで仕事をするならカトリックのほうが都合が良かったから、とする説もあるくらいなのだ。

パトリックは、そんな父を心から愛していた。彼は生涯を通じて敬虔なカトリックだったが、神を敬わない父を軽蔑することはなかった。父の政治に対する自由な考え方にも、パトリックは敬意を抱いていた。

また、父がイギリス人であることを否定もしなかった。ときにアイルランド人に「イギリス人め」と吐き捨てられながらも、自身に流れるイギリスの血を大切に思っていたようだ。イースター蜂起直前には、友人であるデズモンド・ライアンにこのように言ったという。

もし君たちが自由になるとしたら、それはイギリス人の息子が自由にしたということさ!

『Remembering Sion』P130より

パトリックは、厳格な労働倫理、学ぶことへの情熱など、父の気質を多く受け継いだ。これらはパトリックの人生において、大きな役割を果たすことになるのである。

と、ここまでジェームズの魅力的な部分ばかり述べたが、彼の人格には問題点もあった。

ジェームズは人付き合いが苦手な男であったらしく、新しく入ってきた従業員に喧嘩を吹っ掛けるなど、攻撃性の高い一面もあった。そのため対外的には酷く嫌われていたし、仲の良い友人も少なかったそうだ。

しかし、彼の攻撃性が家族に向くことは決して無かった。彼は妻と子供たちを溺愛し、彼らの食事内容や健康状態を気遣う手紙も残っている。

パトリックは父親について、以下のように振り返っている。

彼の体格は大きく、広々とした肩は少しだけ丸みを帯びていた。とても無口な人で、食事中に一度か二度、物思いにふけっては母に何か優しい言葉をかけたり、私たちのひとりに冗談を言ったりする程度だった。それ以外の場合は、私たちや稀な訪問者がいたとしても、彼はいささかぼんやりと座っていた。いつも少し寂しいと私たちは思っていたし、時には本当に悲しかったが、それは稀なことだ。父は母を喜ばせるために、持っていた素晴らしい社交的な才能を発揮しようと奮起することもあった。そんな時、母の顔は喜びに火照り、私たちも純粋な幸福や愉快さから笑い、おずおずと会話に参加したのだった。

『Patrick Pearse: The Making of a Revolutionary』P31~P32より

ジェームズは、最初の妻との間では叶わなかった「幸せな家庭」を手に入れた。自身の会社も軌道に乗り、中流家庭としては良い暮らしもできるようになった。長年の苦労が報われた日々だったと言えよう。

しかし、幸せは長く続かなかった。

1900年、ジェームズは妻マーガレット&パトリックと共にバーミンガムに住む兄の家を訪れた際、脳出血で倒れ帰らぬ人となってしまった。神父が呼ばれたとき、兄に「ジム、お前はカトリックか?」と尋ねられたジェームズは、「彼ら(家族)が幸せになれるのなら、彼らのやり方でいい」と答えたという。

この時を境に、穏やかで幸せだったピアース家に影が差し込むこととなる。

〜〜〜

最後に、冒頭で軽く流した連れ子ふたり、エミリーとヴィンセントについてかる〜く紹介しよう。

パトリックより14歳年上のエミリーは、パトリックとマーガレットの姉弟とは大変仲が良かった。彼女は妹メアリーが産まれてすぐに結婚し家を出てしまうが、その後もピアース家と密接な関係を保っていたようだ*2。

パトリックより12歳年上のヴィンセントについては謎が多い。兄弟らと遊んだり、ウィリアムの進路に影響を与えたりと、四兄弟とは良好な関係を保っていたように見えるが、パトリックの自伝に彼はほとんど登場しない。妹メアリーの自伝に多少登場するようだが、死については両名が触れていないという有様である。そのため彼は、「ピアース家の謎多き第三の兄弟」と言われることもある*3。

次回は、母マーガレットについて紹介する。

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*1 : 読みは『ケルト文化辞典』より。

*2 : 『Sisters of the Revolutionaries』より。

*3 : 『Willie Pearse: 16Lives』より。


<参考文献>

本記事を書く上で大変参考になったのが、Joost Augusteijnによる著書『Patrick Pearse_ The Making of a Revolutionary(2010年)』である。

ありふれた普通の人間が、なぜ政治的理想のための武力行使に至ったのか? 北アイルランド紛争が実質的な終焉を迎えた今だからこそ、パトリック・ピアースという一人の人間の思考を、より理解する必要があるとの信念のもと執筆された書籍である。

この本を勧めてくれたのはツイッターの海外ピアースオタクで、彼(彼女?)によると、「ピアースの完全な伝記というものは存在しないが、あえて一冊選ぶならこれしかない」とのことだった。

ピアースの伝記はいくつか出ているが、客観的かつ中立的なものは少ないという声もある。しかし、この書籍はピアースの思考や人柄について赤裸々に記しつつも、彼の複雑な人間性を受け入れ、敬意を失わない誠実な内容となっている…ように思う。基本的にパトリック・ピアースに関する記事は、この書籍をベースに執筆している。


『Remembering Sion』by Desmond Ryan
https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.543886


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