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②アイルランド建国の父を育んだ者たち――パトリック・ピアースの「父と母」

ガバガバ歴史探求第2弾。今回は、パトリック・ピアースの母親、マーガレット・ピアースがどのような人生を歩んだのか、かる〜く見ていこう。

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アイルランド人の母…明るく素朴なマーガレット


マーガレット・ブレディ、のちのマーガレット・ピアースとなる女性は、1857年2月12日、石炭問屋パトリック・ブレディと、著名なステップダンサーだった女性ブリジット・サヴェージとの間に生まれた。

ダブリンで生まれ、ダブリンで成長していくマーガレット。しかし、元々彼女の一族はミーズ県で農業を営むカトリックであった。マーガレットの祖父ウォルター・ブレディの代の頃、飢饉によりミーズの土地を追われ、ダブリンへと移り住んできたらしい。

祖父ウォルター・ブレディは、1798年の反英蜂起に参加するほどの共和主義者でもあった。同じく蜂起に参加した兄弟はヨーマン(イングランドの独立自営農民)に絞首刑にされ、タラのクロッピー(1798年の反乱に参加した人々をこう呼んだ)墓地に葬られた。

のちにイギリス人と結婚することになるマーガレットだが、その背景は夫とは大きく異なっていたのである。


さて、マーガレットは聖ヴァンサン・ド・ポール学校の愛徳姉妹会(カトリック教会の女子修道会で、貧しい人々に様々な支援を行っていた)で教育を受けたのち、新聞販売店やグレート・ブランズウィック通りの郵便局で、アシスタントとして働き始めていた。

しばらくして、客の男性がマーガレットの働く郵便局のカウンターに通帳を置き忘れるという事件が起こる。

この男性こそが、のちの夫となるジェームズ・ピアースである。

彼らがいつから交際し始めたのかは不明瞭だが、二人のロマンスはこの事件から始まったと言われている。1876年の終わり、ジェームズの最初の妻が死んだ5か月後には、彼らはウェストモーランド通りや、現在のオコンネル橋で何度もデートをしていたそうだ。

ジェームズはマーガレットのどこに惹かれたのだろう? 彼はマーガレットの魅力のひとつに「素朴な明るさ」を挙げている。

黒い髪と目の堂々とした女性だ。飾り気がなく、ふくよかで…質素でありながら明るく、溌剌としている。

『Sisters of the Revolutionaries』P17より

彼女に宛てた手紙の中で、ジェームズは「君の愛は僕の心の大きな空洞を埋めるようだ」とまで記している。温かな家庭を夢見ていたジェームズは、素朴で明るいマーガレットなら、その夢を叶えてくれると考えたのだろう。

とはいえ、彼らの関係は必ずしもスムーズに進展したわけではなかった。

ジェームズは自分の気持ちを表現することが如何せん苦手で、それが原因の喧嘩を何度かしてしまったようである。また、ジェームズが喉の感染症にかかりしばらくマーガレットと会えなくなった時には、マーガレットがジェームズの愛情を疑うこともあったらしい。

加えてマーガレットの両親も、娘がジェームズの連れ子たちをちゃんと育てられるのか心配し、 結婚式の延期を提案していたようである。

このように紆余曲折あったものの、彼らは諸々の障害を乗り越え、1877年10月24日に無事ゴールイン。幸せな結婚式を迎えた。

ジェームズは37歳、マーガレットはわずか20歳だった。なかなかの年の差婚と言えよう。

夫婦となったジェームズとマーガレットは、二人の連れ子と共に、グレート・ブランズウィック通り27番地の賃貸物件に家および会社を構え、新婚生活を送ることになる。


ところで、マーガレットとジェームズの二人の連れ子、メアリー・エミリーとジェームズ・ヴィンセントとの関係はどうだったのだろう? 若いマーガレットは、血の繋がらない子供たちと良好な関係を築けたのだろうか?

当時マーガレットは20歳、長女のメアリー・エミリーは12歳なので、親子というよりは年の離れた姉妹といった様相だが、マーガレットとエミリーの仲はとても良かったそうだ。エミリーは結婚したのちピアース家を離れるが、そのあとも頻繁に家族と接触し、親密な付き合いを続けた。

ところが、対ヴィンセントは少々込み入った事情がある。というのも、マーガレットは生涯ヴィンセントを心から信用しなかったというのである。

この理由は今でもはっきりしていないが、ヴィンセントはある時期を境にピアース家と絶縁状態になり、1912年には貧民にまで落ちぶれ、43歳で人知れず死亡。ピアース家の長男パトリックと、次女メアリーはのちに自伝を執筆するが、兄妹どちらもヴィンセントの死に触れておらず、彼らの間に何があったのかは終ぞ分からぬまま…ヴィンセントは未だに「謎多き第三の兄弟」なのであった。

4人の子供たちとの「幸せな日々」


さて、「ピアース」の名を得たマーガレットは、1878年8月4日*1に念願の長女を授かった。 Wow-Wowやマギーといった愛称で知られる、マーガレット・メアリーである(母親の名と同じで紛らわしいので、本記事中では「マギー」と表記する)。

マギーはのちに生まれてくる兄弟とは違い、明るく活発で話好き、親分肌のある女の子だった。マギーは兄弟の中でも特別父親に懐いていて、彼の仕事ぶりを誇りに思っていたらしい。

マギー誕生の15ヶ月後、1879年11月10日、アイルランドの運命を変える男の子が生まれる。パトリック・ヘンリー、のちのアイルランド建国の立役者のひとりである。幼子は生まれてすぐに重い病にかかり、医者にも死ぬと思われたが生き残った。

パトリックは驚くほど無口で恥ずかしがり屋な少年だった。学校ではいつも教室の隅で本を読み、同級生と仲良くなろうとしなかった。

ところが家庭内では打って変わり、ケーキのトッピング部分だけをつまみ食いしたり、窓ガラスの補強のために塗っていたゼラチン菓子をこっそり舐め取るなど、子供らしい悪戯っ子な一面を見せてくれる。また兄弟の面倒をよく見る、愛すべき兄でもあった。

パトリックが生まれた2年後の1881年11月15日には、難産のすえ、ウィリーの愛称で知られる次男のウィリアムが生まれた。

弟の誕生をパトリックは心から喜んだが、マーガレットは出産のダメージか、死の淵をさまようほどの重い病にかかってしまった。赤子のウィリアムは、一時的にダブリン北部で農業を営む叔父夫婦の家に預けられ、しばらくのちに母親と再会することになる。

ウィリアムはおとなしく、気弱で、優しい性格の少年だった。兄パトリックとは深い絆で結ばれており、ふたりはどこへ行くにも、何をするにも一緒だった。この兄弟の絆は年を重ねるごとに深まり、死ぬまで続くことになる。

そして1884年4月26日*2、ピアース家に最後の家族が生まれる。次女のメアリー・ブリジットである。ウィリアム誕生の際、母親を失いかける恐怖を味わった家族にとって、新たな家族の到来は大きな喜びであった。

メアリーはパトリックとウィリアム同様、おとなしくて気難しい、神経質な女の子だったらしい。彼女は物心ついた時から病気がちで、いつも家のベッドに臥せっていた。病弱な妹を兄弟は心から慈しみ、メアリーは学校教育を受けられぬまま甘やかされて育つことになる。


何はともあれ、マーガレットとジェームズはこうして4人の子宝に恵まれた。マーガレットは仕事と家事に追われながらも、家族と共に幸せな日々を過ごしていくわけである。

しかし1900年9月5日、家族に転機が訪れる。夫ジェームズの突然の死である。彼はバーミンガムに住む兄の家を訪問し、夕食を共にしている最中に脳出血で倒れ、帰らぬ人となってしまった。

ジェームズが残した建築会社の運営は、マーガレットと次男ウィリアム、連れ子のヴィンセントが手伝うようになった。

当初は、所有不動産から得られる家賃などの手数料もあり、滞りなく運営できていた。しかし建築業界全体が不景気になると、会社の経営状態は悪化。さらに度重なる引っ越しや14歳の従弟の事故死など、大黒柱の喪失はピアース家に多くの試練をもたらした。

悲しみに浸る余裕もない一家であったが、1908年9月8日、彼らは新たなプロジェクトに取り組み始める。パトリックの教育理論の集大成、真のアイルランド人育成の拠点、聖エンダ学校の設立である。

事業の発足は、ピアース家の栄光への第一歩であり、長く続く苦難の始まりでもあった。

後半へ続く。

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*1 : 『Patrick Pearse_ The Making of a Revolutionary』は、マギーの誕生日を1878年9月4日としている。しかし、アイルランド国立図書館所蔵の資料によると、マギーの誕生日は1878年8月4日。参考文献『Sisters of the Revolutionaries』も同様の記述である(『Willie Pearse: 16Lives』は該当箇所が見つからず)。ちなみに、Wikipediaには1878年8月24日と記されている…おそらくアイルランド国立図書館の日付が正しいと思われるが、資料の記述が間違っていることもあるので油断ならない。詳しい方情報求む。

*2 : 『Patrick Pearse_ The Making of a Revolutionary』では、1884年4月24日誕生としている。どちらが正しいのかは不明。情報求む。


<参考文献>

本記事を書く上で大いに参考になった書籍が、この『Sisters of the Revolutionaries(2017年発行)』である。他の歴史本では軽く流されがちな、ピアース家の母娘マーガレットとメアリーの人生にフォーカスを当てた貴重な書籍。

著者のTeresa O’DonnellとMary Louise O’Donnellはハーピストであり歴史学の専門家ではないが、本書籍はピアース家の歴史を探るという意味で非常に大きな貢献をしており、両姉妹のさらなる研究の足がかりとして、専門家にも高く評価されているようである。

文章量が比較的少ないうえ、ピアース家のほのぼのエピソードが満載なので、アイルランド歴史オタクにはぜひ読んでいただきたい。


<参考ページ>
https://en.wikipedia.org/wiki/Margaret_Mary_Pearse
https://en.wikipedia.org/wiki/Croppy
https://en.wikipedia.org/wiki/Yeoman


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