サウナと身体感覚とパスタ
パスタを茹でるのにタイマーは必要か?
私はここでの生活を経て、極力タイマーを使わなくなった。そんなことどうでもいいと思ったあなたは正しい。この論点の出現は、交換留学中に日本人の友人と日本とフィンランドのサウナ経験に関して議論を交わした日に遡る。
本文はその議論をもとにした日フィン両国のサウナ経験の比較、そして身体感覚に関するエッセーだ。
切り離す日本のサウナ
日本のサウナはどんなものか。現在のサウナブームはととのいという言葉とともに説明されることが多い。ととのいとは、心身が深いリラックスをし、恍惚感を感じる状態であるという。日本で典型的に見られる銭湯併設型のサウナでは、個人でサウナを楽しむことが普通であり、室内での会話は基本的に歓迎されない。
そして日本のサウナは、一種のエスケープのように見える。これは自分自身の経験からも感じる。日本社会に流れる閉塞感が背景にあるのだろうか、緊張感のある日常からの解放は気持ちがいい。時に苦労を伴う高温と水風呂の往復は、身体を極限の状態に到達させ、日常から切り離していく。(例えばサウナ関連のメディアにおいて、ととのうとは別次元に行く感覚、頭が真っ白になる感覚、無我の境地、等と紹介されている。)課題先進国とも呼ばれる難しい世の中にあって、若者を中心に社会に依存しない個人主義的な幸せを追及しているのは、ごく納得のいく状態だと思う。
つながるフィンランドのサウナ
対してフィンランドはどうか、サウナは日常の延長線上にあり、生活と密接につながった2000年を超える歴史を持った営みだ。もちろん日常からの解放という側面もあるかもしれない。しかしフィンランドの日常に存在する緊張感の程度を考えると、残念ながらその説に説得力はなさそうに思える。
マイナス20℃にも達する寒冷地においてサウナは非常に合理的な生存手段であり楽しみの一つである。また興味深いことにフィンランド人にとって、サウナは一番饒舌になれる場所だ。裸の付き合いでこころをひらいていくのは万国共通のようで、他人と距離を縮めるのにサウナ程適した場所はない。フィンランドの公共サウナは時に騒がしい。
例えば、当時参加していたフットサルチームではシーズン初めにサウナ付きのスペースを貸切っての決起集会があった。主将のスピーチ中に、ガタイのいい大人が早くサウナに入らせてくれとヤジを飛ばす光景は、滑稽極まりないが、フィンランドにおけるサウナの人気と権威の高さの表す貴重なシーンだった。
サウナは日常的なものだから、人々は日本人が湯船につかるような感覚でサウナに入る。熱いと思ったら外に出て、寒いと思ったらサウナに戻る。湿度が足りなければ自分で石に水をかける(löyly/ロウリュ)。サウナの中でビールを飲むのも日常だ。私はビールがぬるくなったらどうするのかと思い、それをフィンランド人に尋ねたところ、ぬるくなる前に飲み切るんだとありがたいお言葉を頂いた。こんな風に、フィンランドのサウナはより個人の感覚重視。”ととのい”に類する言葉は聞いたことがない。ゴールがなく、無理もしないで、過程、瞬間を楽しむ。こちらも日本人の温浴に対する態度と似ている。
さらに、湖や川のほとりにある公共サウナでは自然とのつながりがより強く感じられる。蒸された高温の身体を出迎える広大な自然は、私が環境との連関の中に存在している事実を思い知らせる。そして身体と外部の境界があいまいになっていき、大地と一つになるような感覚を覚える。
フィンランドで生活をすると、自ずから身体感覚の重要性を認識する。感覚にたよならなければ、のぼせてしまい楽しくないし、ビールがぬるくなってしまう。同時に、皮膚をはじめ感覚を鈍らせるような厳しいフィンランドの寒さの中において、身体感覚をぐっと引き戻すような装置=サウナが文化の中心にあるのは必然とも感じる。サウナが人々の感覚を研ぎ澄まし、思慮深く生きることを可能にするとすれば、それは長い冬を生き抜くための一つの条件だ。
何分何セットという信仰
こうした二国のサウナの特徴を確認すると、私は日本のサウナにおける何分何セットという概念に対して違和感を持ち始めた。何分何セットとは、10分サウナに入る⇒水風呂に入る×3セットといったように、日本のサウナ界に存在する公式化されたととのいに至る”道”のことだ。
私が違和感を抱くのは、日本のサウナの作法、そして人々の意識がとても近代、科学的で規範的なことに対してだ。私たちは全身を緩めるための場所で脳みそを使いすぎているんじゃないか。
だから私は、今にものぼせそうな真っ赤な顔で時計とにらめっこしながら外に出る瞬間を待つのはもうやめた。何よりちょうどいい入浴時間は人によって違うし、おなじ人でも日によって違うはず。疲労度、気温、体調、誰と来てるか、諸条件を考慮するとまったく同じ条件のサウナ体験は一つとして存在しないから、何分にこだわる必要はない。それぞれがその瞬間にちょうどいい時間を判断していけばいい。料理だって同じだろう。塩何gと書いてあったって、自分の好きな量に調整するのが当たり前。自分の身体の声を聴き、絶妙な塩梅を追求することは楽しい。
この観点から生活を見つめると、本来身体を使っていい感じにやっていたけど、今となっては頭でっかちでこなしている作業が結構あることに気づく。その一つがパスタだった。
今まで私は、パッケージの示すままに、タイマーを使って推奨時間茹でていた。当然のようにおいしいパスタができる。だが、最高の硬さのパスタをつくる方法は、あなたの身体を用いることにほかならない。都度パスタをつまみ食い、いいと思った時に引き上げる。そうすれば、印刷ミスで異なるゆで時間がかかれていたとしてもしくじる心配はないし、圧倒的に最適な湯で加減を実現できる。何より自分の食事に関して、自分の感覚に勝るものはない。
主体的に生きるために
教育において”自分の頭で考える”、あるいは”主体的に生きる”こと永遠のテーマとして存在しているが、その土台になっているのは、やはり最初は基本的な身体感覚だろう。だから経験を受容する主体としての大いなる身体を取り戻すことは教育的に意義があると信じている。
近年の高度な情報化は、身体を地域や社会から切り離しているんじゃないだろうか。極端な話、一歩も動かなくてもPC一つで一日の仕事を完結できる人も多い。そうなると、人間は頭でっかちになっていく。そして首から上だけでものを考える存在に成り下がる。
だから特にそういったリモートワーカーに象徴されるような現代人が、特定の地域的状況に置かれた身体の感覚をぐっと引き戻すような機会はどこかにあってもよいと思う。それがサウナであれ、ジムであれ良いが、私にとってはパスタだ。料理は感覚を取り戻すのに最高の訓練だと思うし、パスタは、私に”大いなる理性”たる身体を思い出させる。
そんな昨今、もう一度人々が身体に意識的になったら、規範や記号を重視しすぎるあまりのミスは防げるし、現場感覚をもった柔軟な仕事が可能になる。何より、研ぎ澄まされた感覚によって、私たちは他人の感覚を想像できるし、小さな楽しい出来事を拾い上げられるようになる。
結論としていえることは、サウナはパスタとともに現代に生きる私たちに、改めて身体と理性に関する選択を迫っているということ。
などと、頭でっかちになって能書きを垂れる私はそろそろサウナに入った方がいいのだろう。
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