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かけがえのない世界で

I had a dream about a friend.
彼は重たい口を開いていった。おそらく、それは学生としての言い分だったのかもしれない。僕は、使命を持って、小さなギターを捨てて、ゆっくりと上京していた。あの頃の、春の風は、僕を夢中にさせて、決して揺るがない思いやりと絶対的な希望に微笑していた風の中。どうして世界は滅んでいくのかを目の当たりにした、21世紀の悲しい夢。

それに対して、自分をずっと追いかける幻に照らされた月明かりは、街並みを歩くにつれて、それ自体がnostalgicで「何かが遠方から聞こえてくる」夜の街だった。私を混乱に陥らせた高校の息苦しさは、徐々に消えていき、自分が主観となることで、繰り広げられる言葉の繋ぎの間に、何かをバトンタッチしたような虚に近い回復が見られた。少なくとも、2000年というのはそんな歳だった。
僕という一人称の形から入るのは、自分自身を人が客体として見るというより、その人から見た主観の中に映し出される自分の存在に関係性を持っているからだ。つまり、空が青いという事実上の認識は、まず自分自身が存在を定義して、友達であれ、親友であれ、知らない女性だったとしても、その意識の中に内在された瞬間に、さっと空を見上げて、「空は青かった」と認識される。これは、現象論として、と言うよりも、ものすごい短い間の哲学であって、いつもこうした感覚を持っているから、文章が綺麗に書けることもある。並木道の銀杏の葉をずっと見ていると、風の中をひらひらと呼び出す視界から、色とりどりの感覚を味わう。そういった5感を大切に出来た頃のことを思って、哲学的な要素をひっくるめてみる。そこには、まず自分という実体がなければならず、世の中の関係は必ず、光と目の網膜だけでも脳内の記述できる。こういった生物的な要素から、脱却するにしても、存在というものがあろうならば、何らかの地獄絵を見たり、時には共産主義の一面が光に晒されて、小さな車座を作ることがある。その時、車座に入るかどうかというのは認識論の話で、人々が笑顔をみる。このnoteには、可能性は多いにあると思う。
私には、忘れられない人がいる。そういう感情は、常にフラッシュバックして、蜜蜂が運んでくる甘い春の憧憬のように、淀んだ景色が綺麗なぬくもりを持った「ただ、唯一の人」という初めての経験をした。子どもの頃から、僕は思春期を過ごすために、あらかじめ定まった宿命を持っていた。それを何とか誤魔化そうと、沢山のデバイスに触れていた。女性は、歳を重ねるとき、何かしらの戸惑った側面に悩まされる。

僕は、昔からジョン・レノンの「Oh My Love」という曲が好きだ。世界というものが、彼と彼女に集約されて、メロディーも良い。時は、過ぎ去ったと思えば現れていつも愛と平和をくれる。
「Oh My Love」
https://youtu.be/u3QZVdqUidw?si=BXr7QP_f0j4nST7N

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