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説教をつくるということ

 僕がルーテル大学時代(社会福祉学科でした)に生活した男子寮「ルター寮」は、毎晩とても賑やか(というかうるさいというか…)なところだった。呑んで騒ぐ声、麻雀牌のジャラジャラした音、ギターの音…。ところが週末、とくに土曜日の夜は静かだった記憶がある。土曜日の夜は寮にいる人間も少なかった。アルバイトに行く者、飲みに出かける者、彼女とデートに行くヤツ…(それだけ“ヤツ”かwwww)。ただ静かなのはそれだけではなかった。

 まだ一年生だったある土曜日の夜、同級生たちと部屋で飲んで喋っていた。夜が深まるにつれて(酒がすすむに連れて)、自然と声が大きくなっていく。同級生が浜田省吾のレコードをかけはじめる。まあいつもの光景だ。夜も更けてきたそんな時だった。ノックも無く部屋のドアがガチャっと開いた。そこにはある先輩が立っていた。廊下で会えば会釈ぐらいはする、だけど言葉を交わしたことのない先輩だった。それも神学部の先輩、牧師を目指す「神学生」だ。
「頼む。静かにしてもらえないか」僕らは何も言えなかった。有無を言わせない迫力だった。
「明日、実習先の教会で説教なんだよ…」僕らはハッとした。そうか、土曜日の夜ってことは…
「あ、すみませんでした…」
「ごめんな。頼むよ…」その先輩は静かに部屋に戻っていった。

 また、違う日のことだった。土曜日の夜に飲み歩いて、日曜日の朝に寮に戻った時(どんだけ飲んでたんよwww)、ある神学生の先輩の部屋がバタン!と開いたかと思うと、その先輩が物凄い勢いで飛び出していった。この人もこれから実習先の教会で説教だったらしい。きっと一晩中眠らずに説教をギリギリまでかかって書き上げて飛び出していったのだ。
 当時のルーテル大学では金曜日の礼拝で神学生が説教と聖餐式を担当する。その後の説教演習の時間で教授に「血祭り」に挙げられるのだ。日曜日の礼拝も大変だ。ルーテル教会では教会暦がしっかりと定められており、自分の得意な聖書箇所を選ぶことなどゆるされない。その日に当たったテキストに徹底して向き合うしかないのだ。
 50歳も過ぎた今、あの先輩たちの姿を今も思い出してしまう。
 

 ルーテル大学を出た後、僕は日本聖書神学校に入り「神学生」となった。やはり説教演習は怖い時間だった。色々なことを指摘された。でももっと怖いのは教会という現場に出てからだった。説教を書き上げるのはいつも日曜日の朝3時とか4時。徹夜も珍しくはなかった。徹夜が出来ない年齢になると、逆に早く寝て日曜日の朝5時に起きてなんとか仕上げる。そんな日々の繰り返しだった。
「何を話せばよいのだろう…通り一遍の解釈ならできるかもしれない…でもそんなものを話してみんな許してくれるだろうか…ああ。そういえば昨日あんな事件が起きた…なんか心揺さぶられているんだけれど…でもどうやってそれを言葉にしたらいいんだろう…うあああああああ」そんなことの繰り返しだった。毎週毎週。

たぶん神学生の人、牧師になって間もない人…土曜日は毎週苦しんでおられるのではないだろうか。日曜日が来るのが怖いという気持ちにもなるかもしれない。でも、それでいいんですよ。そうやって悩んで苦しんで、回り道して祈って…そうして言葉を絞り出す作業から逃げないようにしてください。

僕もこの仕事について気が付けば27年ほど経ちましたので、さすがに徹夜するなんてことは無くなりました。でも今でも悩みっぱなしです。土曜日の夕方になって説教原稿を書き直したり、日曜日の朝になにか書き加えたり…そんなこと、今でもあります。そうやって出てきた説教はきっと何かは伝わりますから。

もっとも最近は、AIだとかチャットなんとかだのと便利なツールも出てきました。これらに聖書箇所を伝えれば、なんとなくの「説教っぽい」文章ができるそうだ。これにネットで拾ってきた他の牧師の説教や著名人の言葉でもちょっと引用すれば、ハイ日曜日の説教の出来上がり、となる。ただそういうのを毎週聴かされる教会員は気の毒だとは思うけれど。

 でもなぜそういうことが出来てしまうのかというと、牧師側に「どうせ教会員なんてわかりゃしねえだろ」という思い込みがあるからなのだ。正直に告白すると、ずいぶん昔、ある牧師の説教の一部を自分の言葉のように講壇から語ったことがある(別に「これは◎◎牧師が語っていたことですが」と一言いえばよかったのですが…)。ところが礼拝後にある信徒さんが「金子先生、今日の説教よかったのですがどこかで聞いたことがあるような気がするのですが…」と言われた時は肝を冷やしました。それ以来、そういうことは止めた。

 信徒さんたちは聞いてないようで、しっかり聞いているす。なにひとつ聖書に向き合うこともなく、み言葉と格闘していない説教などお見通しなのだ。それぐらいの感性を長く教会生活している人たちは感じ取ってしまう。もし貴方が牧師で「この程度でいいだろ」と思っているのなら、あなたも「その程度の牧師」で終わるだろう。
 会堂にいる人たちはキリスト教の解説を聴きたいのではなく、聖書から迸る「いのちの言葉」を求めている。だから毎週土曜日の夜(でなくてもいいけど)、牧師は悩むしかないのだ。なんという恵みだろうか!

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