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コーヒー日記⑰

前回、『構築論的理学療法』なんてかっこつけた名前を掲げてちょっとばかし論じてみた。

何度も言うがこれはプロトタイプなので(勢いで小一時間くらいで書きました)、随時修正を加えていきたい。
そんなわけで、『構築論的理学療法』についてその都度考えたことを書いていき、それが溜まってきたらこのプロトタイプを再編成していく、という形をとってみようと思う。

今回は、想像力。
被ケア者を真に理解するための「きっかけ」は、人生史を語ってもらったうえで、結局のところ「想像する」だったり、「思いを馳せる」ことなんだと思う。

被ケア者の視点に立ってみても、自らが当事者であるライターの鈴木大介氏は、著書「脳コワさん」支援ガイドにて、『当事者の見えない苦しさを想像するイマジネーション』を持ってほしいと訴えています。

また、ケアの文脈に限らず、現代における人間関係で欠如しているのは「想像力」なのかもしれない。

『思いがけず利他』の著者である中島岳志氏は、こんなことを述べています。

親鸞が見つめたのは「私が私であることの偶然性」であり、その「偶然性の自覚」が他者への共感や寛容へとつながるという構造です。
私は、現代日本の行きすぎた「自己責任論」に最も欠如しているのは、自分が「その人であった可能性」に対する想像力だと思います。

143項 強調引用者

つまり、ケア者である前に、一人の人間として、現代では他者に対する「想像力」が欠如しやすい。
そんな状況なのだから、ケアの文脈においても、「想像力」が発揮されにくいことは明らかでしょう。

「想像する」という、非科学性。
非科学で、客観性に乏しいテーマであるからこそ、権威のある雑誌に載ることが目的なのではなく、『note』というプラットフォームで、わたしのような権威のない一般人の想いや願いが集積されていくこと。
そういうことが、大事なのだと思うのです。
「想像する」という抽象的な営みを、これからも考えていきたいと思います。

客観化する学問そのものが悪いわけではない。客観化が、世界のすべて、人間のすべて、真理のすべてを覆い尽くしていると思いこむことで、私たち自身の経験をそのまま言葉で語ることができなくなることが問題なのだ。

村上靖彦著 『客観性の落とし穴』40項

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