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安達哲「さくらの唄」を読んで

37歳と2ヶ月目、日曜日の昼下がり、オットマン付きのソファーにぐっと体を沈めながら、「緩和と鈍化」について考えている。感じは正反対ながら、意味はほぼ近い。

安達哲さんの「さくらの唄」を15歳ぶりくらいに読んだ。

つまり22年ぶり…!?(どひゃひゃ)。
変わらず、また刻まれる良作品だなと再認識、そして10代と30代の読後感の違いについて思いにふける。
時間をこえて2回読めることは生きていくことの贅沢だ。

[第1巻]『さくらの唄』#LINEマンガ
あらすじ
鬱屈(うっくつ)した日々を送っていた高校生・市ノ瀬利彦(いちのせ・としひこ)は、絵画を通し、学校のマドンナ・仲村真理(なかむら・まり)と親しくなる。彼女主演の映画を作り、文化祭で上映するべく、級友達と活動を始める利彦。真理という明るい太陽に照らされて、利彦の青春はようやく煌(きらめ)き出す…はずだった。'90年代、日本中の青少年の脳髄を揺さぶった、青春漫画の金字塔!!

そして昔の漫画は髪の毛描くのうまい!


コミック時は全3巻だが、今回は上下巻で読む。セパレートが秀逸(余談だが秀逸とは科挙からきているらしい)。
上巻は誰しもがもつ10代の日々を決して美化せず、青春のこうありたかった憧憬、痛さ、エロ(青春にエロはつきもの
)が端々に散りばめられて、高校の時の教室の青臭いカーテンの匂いを思い出す。(当時は本当にあの匂いが気持ち悪くて嫌いだった)

下巻は大人のズルさに蹂躙させられていく辛しな展開、人生の踊り場(ターニングポイント)のように表現されている、ここから階段を下るか上がるかはあなたの高校時代の同級生を思い浮かべてほしい。(この時期がターニングポイントでない人もいる)

15歳の時、どこで読んだか記憶はないが「読んではいけないものを読んでしまった」と感じるほどの悪とエロが詰まっていて"鬱勃起"って表現がまじでマ¥チしている。学校の憧れの美術の先生は、脅され、生徒相手にただ、クンニリングスして映像でさらされるし、今回表紙に使ったお姉ちゃんは主人公と姉弟という近親相姦したりと・・・どんだけやねんって感じなんだが、破滅に向かう感じがリアルで、私が知らないだけで、普通に行われてる、表に出ないことを見せられてる感じ、私の知ってるあの子も、この人もこんな風に過ごしてるのかもしれないと。

シンプルに不快だったし、外の世界(社会)への嫌悪感がむくむくわいてきた。(15歳の私はまだいろんなものに守られていた)

これまで決して面白い漫画として挙げなかったこの作品を改めて読み、37歳と2ヶ月の私は15歳の私と全く違う感受をしてることに気づく。

当時持っていた、若さゆえの正義感とか倫理観でなく、ただの経験と知識がなかっただけだと気づいたのは改めて読み返した、今。22年で手に入れた、経験と知識は10代の時の不快感を完全に消し去ってしまっていた。これは、鈍化なのか、緩和なのか分からない。

どちらにせよ、あのころにもう引き返せないことは・・わかる。その時は気づいてなかったが、『さくらの唄』はそれを22年たった今分からせてくれた・・・なんともな漫画の1つでもある。


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