見出し画像

「一番の親友」役を、今日降板する。

親友と呼べる友人が、私にはおそらく四人います。その四人それぞれに繋がりはなく、一人は中学、一人は高校、あとの二人は大学時代にそれぞれの趣味で出会いました。

他の記事でも触れていますが、私は元々非常に人見知りです。尚且つ、人との距離感を適度に保ちたいタイプで自分のフィールドに他人を入れることに慎重です。

人付き合いの基本は、来るもの拒まず去るもの追わず。友人関係は、お互いが楽しい時も辛い時も、一緒にいたい、一緒にいて欲しいと望んだら望まれれば隣にいる。でも、そうでもない限りはそっとしておくことも多いし、そっとしておいて欲しい。

四人中三人は、私の性格を理解してくれているのか、ありがたいことにとても良い距離感で長年の付き合いをしてくれています。三人とも今は子持ちです。私だけ子供がいないけれども、私はこの三人の友人の妊娠出産に対して何もマイナスイメージを持たず、生まれてきて、時に顔を合わせても本当に宝物のように思う存在です。基本的に私は子供が苦手なので、他人の子供は得意ではないのですが…大切な存在の大切な存在は、私にとっても同意のようなのでした。

さて、もう一人の親友です。

こちらは私にとってはむしろイレギュラーの極みの友人関係です。

彼女は非常に愛情深い。そして身内意識や特別意識が強い価値観です。それ故に、独占欲も人一倍強く、いつしか気付けば、私は彼女の一番の親友という立ち位置に収まっていました。

どうしてこうなったのかしら…と思い返してみても、特に大きなきっかけがあったようには思いません。ですが、ある頃を境に、彼女は事あるごとに私に「一番大好き。一番大切。私のことも一番好きでほしい」という愛情表現をしてくるようになりました。

私は正直な気持ちで言うと、友人関係には一番や二番などの優先順位はないと考えています。友達なのだからみんな同じラインなのです。

ただ、悩み事を話した時に「この子は冷静で客観的な意見をくれる」から話そう。「この子は優しくて友達贔屓な言葉をかけてくれるから、今は優しさが欲しいから」話を聞いてもらいたい。そういう場面によって、選択する友達はそれぞれ違うと思うのです。私にだってそうでしょう。得手不得手は誰にでもあります。

その友人は何事も「私の一番」であることに拘りましたし、少しでも他の子が自分よりも仲が深いと感じ取れば烈火の如く怒り、嫉妬をしてきました。

しかしここで私の悪癖が顔を出します。

前の記事で、下手に出ることで相手の機嫌や自分への扱いをコントロールするという悪癖があることをお話ししていましたが、今回はそれよりもさらに悪質なものです。

彼女の嫉妬や怒りを、どこか遠くのものに感じてしまったのです。薄い膜の向こうで流れている漫画のセリフのように。そして私は、こう思ったのです。

「この子は私のことをこういう形で愛してくれて、こういう形の愛を求めているんだなぁ」

空気を読むのは子供の頃から得意です。むしろ空気を読むことで生きる術を探してしまいます。私は空気を読んだ結果、心にもないことを告げました。

「私もあなたが一番な親友だとおもってる」

友人関係に一番も二番もないと思っているのに、相手がその言葉を望んでいると分かった瞬間に、私の唇は流れるように思ってもいないことを告げるのです。

さらに私の悪癖はここに留まりません。さらに続きがあるのです。

それは、心にもないことを言い続け、思い続けるうちに、それが本当に自分の感情であると錯覚させることができてしまうのです。錯覚している自覚はあるままなのが、幸か不幸なのかはわかりません。

気を良くした彼女とはとても円満に関係が続き、大きな喧嘩もしないまま長い時間を自他共に認める一番の親友として過ごしています。勿論、現在進行形です。

ただ、ここにきて突然、タイトルの状態です。

私に限界が、訪れそうなのです。

彼女の性格は、素直で直情的。自分を偽らず、ハッキリと意見を告げ、自己主張が激しい。とても情が深くて優しく熱い人間性ですが、嫌いな相手には容赦なく攻撃をする。基本は自分が大好きだと本人も言っているので、自分が正しいと根本では思う価値観なのでしょう。相談されてアドバイスの返答をしても、望む答え以外は受け入れてもらえません。

それでも私は、彼女のことを非常に好ましく思っています。何故なら私にはないものばかりを持っている、正反対の人間だからです。素直で熱く感情的な性格は、とても人間らしくて、いつも心とお腹の中では冷ややかに物事をみてしまう私とは全く正反対の、温かい心を持っているように見えるのです。

彼女は楽しいことが大好きです。楽しい時間や好きなものには目がありません。私を色んなところへ連れて行ってくれて、楽しい時間を沢山過ごしました。

ですが逆に、私が辛い時に彼女が隣にいてくれたことはあったかしらと考えると、それは皆無に等しい。彼女はマイナスな空気が苦手なのです。

それでも私は、まあそれもいいだろう…彼女は楽しい時間を私と共有したいのだろう。そう割り切ってしまえば、何も不満はありませんでした。

…そのはずだったのです。

このコロナのご時世、色んなことがありますね。大変な方も沢山いらっしゃると思いますし、私もそれなりに大変ですし、彼女も例に漏れず大変なようです。

彼女はとても辛いことがあると、まず私に愚痴と悲しみや怒りの丈を綴った長文のLINEを送ってきます。でも、こんなご時世です。私に相談したところで何も解決しない愚痴ばかりなのです。

私も当たり障りなく返答しますが、彼女のほしい言葉ではなかったようで…私もまだまだ未熟なのです。こういうとき、彼女は未読スルーを決め込みます。

彼女の未読スルーは必殺技なのですが、どういう意図があるのかはわかりません。想像するに、おそらく返信できるタイミングや気持ちが落ち着くまで、とりあえず放置…という自己防衛なのかもしれません。

ですが、さすがの私も仏ではないのです。ああ、失敗してしまったんだなと気付いてから、相手を気遣うコメントを追送してみますがそれも当然読まれることはありません。

大体こういう時、2、3日経つと返信が来ることが多いです。私はホッとする反面、非常にストレスを感じていることにようやく気づいたのです。

自分の中に芽生えていた、本当の気持ちがやっと小さく顔を出し始めました。

一番な親友、一番大好き…そう言いながら、楽しい時間しか共有しようとしない。自分の都合でしか会話をしようとしない。エトセトラ、エトセトラ…

これは一番の親友という立場の上に、完全に甘えられているのだなと、やっと気がついたのです。いえ、気づいていたけれど面倒で考えないようにスルーしてきてしまったのです。それよりも、ストレスが今回は上回ってしまったようです。

コロナのことがなければ、もう少し私も余裕を持って接することができたのでしょう。この災害ともいえる現状社会は、人の心の余裕や本来あるべき何かまで壊してしまって蝕んでいるのではないかと感じます。

ここにきて、自分が本当に冷たくて酷い人間だと思い知らされることになります。親友だよと告げてきた言葉が、自分の中でただのポーズであったのは自覚していたにしても、それなりに私は本当に彼女のことが大好きでした。大切にしていたつもりでした。大切にされていた思い出もあります。

でも今は、彼女との縁が今この瞬間切れようとも、何の感情も感傷もないのです。

一番な親友だよね、というまるでドラマの役割のように、型にハマって演技をして、そのお芝居という舞台上の時間を楽しく過ごしてきたのかもしれません。それはそれで、とても楽しく有意義で幸せな時間でした。

でも今は、もう潮時かなと思ってしまうのです。

最後まで本当のことを言えずにごめんなさい。あなたのことは、あなたの求める存在にはなれなかったけれど、私なりに大好きだったから嘘をついてしまいました。長い間、あなたの一番の親友というポジションを、演技の自覚がありながら、演じ続けてしまってごめんなさい。本当の意味での親友になれる日がくると、信じていなかったわけではないのですが、根本的にやっぱり私たちは人間性が違うようでした。

今はただ、これだけ仲が良かった私たち二人が離れたからという理由で、共通の友人や知り合いを困惑させてしまうことが申し訳ないと思います。何かあったわけではないので、余計に。強いて言えば、私が勝手に限界になってしまったというだけなので決定打には欠けるでしょう。

でも今はもう、すこし清々しい気分ですらいます。「一番の親友」をずっと模索して、正解を探し続けた十数年間。私は結局正解にたどり着かなかったけれど…一緒に過ごした時間は演技ではなくとてもら楽しかった。

でもきっと、彼女の性格的に、今後私は彼女から嫌われて攻撃対象になるでしょう。それは悲しいのですが…傷つけてしまったのなら、当然なのかもしれません。演技の「親友」だったなんて、裏切りでしかないですもんね。

でもどうか、私と「親友」として過ごした日々までは嫌わないでほしいと思います。演技ではあったけど、嘘ではなかったから。本当に楽しい時間をありがとう。

できることならば、本当の親友になりたかった。

あなたがくれたお手紙は、一つ残らず全部、大切にしてあります。どうかこれからもあなたらしく元気に過ごしてね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?