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サンリオの哲学を浴びた日の話

はじめに

先日、『幼稚園児とプペル歌舞伎を観劇した話』という記事を書きましたが、実はその数日後に娘たちと初めてサンリオピューロランドに行く、
というイベントがありました。

キャラクターショーを観たわけですが、
これがまた、先般の歌舞伎との対比と、自分自身の「サンリオ」との関わりヒストリーと照らし合わせて、とてもとても感慨深かったので
その話を書いてみます。


キティラーブームと、スクールカースト

出典;Domani


私のサンリオとの出会いといえば、おそらく幼稚園生くらい。
最寄りのサンリオショップに母親と出かけては文房具なんかを買ってもらって、包装紙におまけマスコット(プレミアム)を貼ってもらうのを
すーーーーっごく楽しみにしていたのを覚えています。

そして90年代後半。
アムラー、コギャル、109、なんかが流行った時代に
「キティラー」ブームがありました。

私は1980年生まれで、この女子高生ブーム全盛時代にちょうど女子高生で、
ブームというブームは悩まず全部吸収するような性格。
もちろんルーズソックスを履いていたし、日サロで焼いていたし、
頭に大きなお花をつけていたし、制服のスカートは裾を15センチ切った上に2~3回ウエストを折り返して、マイクロミニ状態。
(今思い返すと・・だいぶ恥ずかしいです、はい。)
母は、

花だけはバカっぽいからやめて

て何度も言っていたっけ・・(笑)
自分も2人の娘の母親となった今は、痛いほど母の気持ちがわかります。

そんなわけで高校生の時、
パールピンクのキルティングのシャネルみたいな(?)
キティグッズが発売され、キティラーブームが来たときは
それはそれは歓喜して、携帯ケース、化粧ポーチなど
あらゆるグッズを買いあさり自他ともに認めるキティラーでありました。

私は高校の時、スクールカーストでいうと
上の方のグループにいたと思いますが、その中でも
THEキティラー!だったのは私くらい。
当時なんであんなにキティちゃんにハマったのか?
と考えると、
「わたし」を「Cawaii」寄りに盛ってくれる存在
だったから、だと思います。
スクールカースト上位にいるには、
何かしらの要素で他人から認められることが不可欠。

  • 可愛いのか?

  • スタイルがいいのか?

  • オシャレなのか?

  • 経験豊富なのか?

  • お金持ちなのか?

  • 友達が多いのか?

などなど。
さして目立つ要素を持っていなかった私は、キティラーであることで
本来の私よりも、より

  • キラキラで

  • ハッピーで

  • とっつきやすい

と周囲に見せたかったのだと思います。(・・・改めて書くと恥ずかしい)
それくらい、当時は「Cawaii」(既に世界共通語なので敢えてローマ字で!)と周囲から思われること、が大切だったのです。


ほんとうの本当は、

  • ちょっと影があって

  • 思慮深くて

  • 物事をよく知っていて

  • 村上春樹さんの小説に出てきそうな人

になりたかったけど(・・・これはこれで恥ずかしい)
高校生の私にとっては、スクールカーストの上位に食い込むことの方が、
大事だったのです。
キティちゃんの存在は当時の私にぴったりとハマったのでした。
「自分らしく、ありのままに」が大事にされる今に生きていたら
だいぶ違う高校時代を過ごし、その後の人生もだいぶ違ったものだったかもしれません。


Cawaiiを仕事にした20代

大学を卒業して私は広告代理店に就職。
元キティラーだったこと、をちょっとした売りにして(?)
サンリオのみならず、様々なキャラクターを活用した企画を立案しまくり、毎日忙しく働いていました。
そう、Cawaiiはビッグビジネスだったのです。(いや、今もね。)
女子高生だった私がそうだったように、Cawaiiはひとを駆り立てるので
お金が動きます。

私にとって、学生時代は、
サンリオ=Cawaii=アイデンティティ(の一部)

社会人になってからは、
サンリオ=Cawaii=お金(仕事)

という感じでした。

この感覚を大きく覆したのが、この記事の冒頭でも触れた
サンリオピューロランドでショーを観た経験です。
老いも若きも、大人も幼児も、どうしてサンリオに惹きつけられるのか。
その理由が少しわかった気がしました。

サンリオのマーケティング戦略でよく語られる2つの話

サンリオのマーケティング戦略について、経営者のインタビュー等を拝見すると、『長期にわたるエンゲージメント』と、『ファミリー向けから大人女子向けへの方向転換』という二つの話を目にします。

一つ目の『長期にわたるエンゲージメント』とは
私もまさにその一人でもあるのですが、
幼児の頃にサンリオグッズに囲まれて育ち、成長に伴いサンリオとは離れるものの、母親となって我が子と共にサンリオに戻ってくる、というもの。
これを実現するために、サンリオとの接点を持ち続けられるよう
様々な手立てを打っておられるそうです。

二つ目の『ファミリー向けから大人女子向けへの方向転換』は、
特にサンリオピューロランドの成功事例が顕著のようです。
実際、私も初めて訪れて驚きましたが、全身黒いコーディネートで、クロミちゃんのカチューシャを付けた、クロミちゃん女子(たぶん女子高生、女子大学生くらい)を沢山見ましたし、
また、ショーに出てくるダンサーさんにイケメンが多いので、
彼ら目当ての推し活をしているらしき女性も沢山見ました。
大人女子向けの戦略は見事に当たっているようです。

しかし。
私が感銘をうけたのは、世間的に有名で且つ大成功している、
これらの戦略ストーリーではありません。
マーケットは変わり続けます。人の興味関心も変わり続けます。
それでも、老いも若きも、大人女子も幼児も、
60年近く、人気をキープし続けているサンリオならではの、
秘伝のタレ的なモノ、の存在です。


サンリオの哲学

出典;サンリオ

人々がサンリオキャラクターに求めているのは、
とにもかくにも可愛らしさですよね。
しかし、このCawaiiは、言ってみればサンリオの表面を覆うお化粧です。
Cawaiiの皮を1枚めくると・・・

そこには、すごく明快な「哲学」がある事に気が付きました。
何を隠そう、私がサンリオピューロランドで触れたその哲学が、
私を含め、人々がサンリオに惹きつけられている根源なんじゃなかろうか?
と思ったのです。

その哲学とは、

『みんななかよく』


です。
キャラクターショーには、必ずこの精神が描かれています。
ショーだけでなく、映画や絵本などサンリオが作る「ものがたり」には
必ずこの精神、哲学が根底にあるのです。
なんてったって、サンリオ社の経営理念のページにも書いてあるのです。

でもなぜ、それが?
概念が大きすぎやしない?
漠然としているんじゃない?
小学校一年生の朝礼で先生に言われそうな、
『みんななかよく』
がなんで幼児だけでなく、大人女子にまで影響しているのでしょうか。


実体験から解説してみます。
私が観劇したショーは、『KAWAII KABUKI』というものでした。

出典;サンリオピューロランド

冒頭で述べたように、サンリオのショーをみる数日前に、
私は市川海老蔵さんのプペル歌舞伎を観劇していて、
市川家、伝統の『勧善懲悪』の完成された世界を
目の当たりにしていました。
物語の中盤、悪役に叩きのめされそうになる主人公。
それでも、この物語は『勧善懲悪』だとわかっているから、
きっと、大丈夫、ヒーローが現れるから!と、安心して待てるのです。
そして、その時が来ると
「ああ、遂に!出てきてくださった!!感謝!!」
とばかりに、海老蔵さん演じるヒーローに会えたことに感激するのです。
不思議な事に、話の先が見えていても、しっかりと感動できるのです。
何百年前に歌舞伎を観ていた観客もきっとそうだったはずです。


では、サンリオの『KAWAII KABUKI』ではどうだったかとういうと・・・

歌舞伎を題材にしているので、悪役とヒーローは出てくるものの、
最後にヒーローが、悪役と「なかよく」なって終わります。
悪役を許し、仲間に入れ、みんなで仲良くするのです。
サンリオの世界では、
ヒーローは、悪役を成敗しないし、責めない。白黒つけない。
悪役側の気持ちに共感し、「仲良くしよう」と提案するのです。

サンリオファンは、この哲学があるからこそ、
安心してサンリオの世界にのめり込める。
自分が友達のように思っていて、いつも傍においている
愛するキャラクター達は、常に

みんなで仲良くしよう♡

と言い続けます。
キャラクター達は決して裏切らない。
どんなシチュエーションでも優しく、「仲良くしよう」と言ってくれます。
サンリオファンは、このキャラクターのブレない佇まいに
安心し身を委ねられるのです。

Cawaiiの根底にあるこの哲学の海の中で
幼児も、クロミちゃん女子な女子高生も、
子どもを産んでサンリオに戻ってきたお母さんも、おばあちゃんも
安心して、気持ちよく泳いでいるんだろうなぁ、、、と思いました。
「みんな仲良く」と言い続けているキャラクター達を傍においておけば
自然と、心地よくハッピーな気持ちになる、というものです。

勧善懲悪にせよ、みんな仲良く、にせよ、
やり続ける、言い続ける、決してブレない、
その物語に安心できるから、人々は惹かれ続けるのだと思いました。
まさに、継続は力なり、です。


そこに哲学はあんのかい?

子育てをしていると、母親は様々な選択を強いられます。
どんな些細なことだって、メリット&デメリットを調べつくし、
我が子に合っているか否かを想像し、決断をしていくのです。

それこそ、母乳かミルクか論争に始まり、保育園か幼稚園か問題、
YouTubeを見せるか問題、ゲームを買い与えるか問題・・・などなど。
何を問題とするのか、は人それぞれかと思いますが、
選び取る行為自体に、母親は消耗していくんですよね。

この時に、自分なりの「哲学」があれば・・・!!
どんな論争や問題がやって来ても、迷わず選び取って行けそうです。
しかも、成長した我が子にも、
「あの時、ママがあなたに〇〇した理由はね・・・」
と、キチンと説明ができます。

往年の名ドラマ「ひとつ屋根の下」
あんちゃんの決め台詞にかけて、自分に問いかけてみます。

あなたの子育てに哲学はあんのかい?

私は、子育てが始まって5年経ちます。
未だこれです、と人に語れるような子育て哲学は、正直ありません。
それでも、言語化する努力はし続けたいと思いました。
人を動かすのは、結局、哲学だと思うからです。

最後に、自分への戒めも込めて
マザーテレサの残した名言を書き記しておこうと思います。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

- マザー・テレサ

私の思考(=哲学)が、言葉になって子どもに伝わって、
やがてやがて、子どもの運命にまでつながっていく、というお言葉です。
深い、、、深すぎる、、、
そして、普段の自分の言葉を振り返ると、子どもに申し訳なさ過ぎて
ひと回り、いや100回りくらい小さくなってしまいそうです。


初めてサンリオピューロランドに遊びに行った日は、
自分の「子育て哲学」なるものを考えるきっかけとなった日でした。

何でもない日、おめでとう。


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