私説。生まれながらの自閉症はいない

私は生まれながらの自閉症者はいないと思っています。専門家や当事者、家族の方からは一蹴される意見でしょう。私自身、確信はなく、まだ予感のようなものに過ぎないのですが、一度予感のままに書いてみたいと思います。

自閉症者に関してずっと不思議だったことがありました。自閉症と言うと、真っ先に言われるのが「コミュニケーションが苦手」ということです。またちょっと自閉症を調べれば必ず出てくるのが「感覚過敏」です。感覚過敏は自閉症につきもののように、多くの自閉症者が抱えている悩みです。「コミュニケーションが苦手」「目が合わない」等の、言葉は悪いですが「鈍感」さが、感覚過敏と言う「敏感」さと同居していることにずっと違和感がありました。

自閉症者の多くは感覚過敏があります。定型発達者(いわゆる普通の人)には普通の雑音にしかすぎない音が、工事現場にいるような騒音に感じたり。服のタグが痛かったり。晴れの日の日中は眩しすぎて外を歩くのに困難を感じる人もいます。

こうした感覚過敏はよく「耳が良すぎる」「目が良すぎる」と表現されますが、私はそうではなく、「自動調整機能が弱い」のだと考えています。例えば定型発達者(普通の人)は人混みの中で会話することができます。耳には他の人の話し声や足音、車の音、物と物がぶつかる音などたくさんの雑音が入ってくるはずですが、「今、必要な音」以外は自動的に脳が捨ててしまいます。だから多少うるさい場所でも会話が可能なのです。夢中になっている時は名前を呼ばれても気付かないことさえありますよね。

聴覚過敏の人は、必要な音も不必要な音も同等に聞こえます。屋外で家庭用ビデオカメラの撮影をすると、肝心の子供の声だけでなく、風の音やたまたま通ったトラックの音が大きな音量で入っていて、不快な思いをしたことはありませんか?あれに近い状態が24時間・365日続いているのが聴覚過敏者の生きている世界です。

また、自閉症当事者の著作としては古典ともいえる、ドナ・ウィリアムズの「自閉症だった私へ」には、幼い子供だったころに光の粒子が見えていたことが書かれています。本当に光の粒子が見えていたのか、違うものを見ていたのか、証明するすべはありませんが、少なくとも定型発達者が見た記憶のないものを彼女は見ていました。

聴覚・視覚だけでなく、五感全てに感覚過敏があります。そして感覚過敏がある為に日常生活で困っている。と言う話はよく聞きますが、感覚過敏で便利だ。と言う話は聞きません。つまり日常生活を送るうえでは、情報は適当に捨てるくらいがちょうど良いのです。だから私たちにはその機能が備わっています。その機能がうまく働かない状態が感覚過敏なのだと、私は考えます。

また、最近HSP(Highly sensitive person)と言う言葉がインターネットやTVでもよく見られるようになりました。感受性が強く、周りに悲しんでいる人がいると自分も悲しくなり、強い口調で非難されたりするととても大きなダメージを受けます。人には元々共感する力が備わっていて、感情というものは伝播するものです。HSPはそのセンサーが強すぎる、あるいは自分がダメージを受けすぎないように自動調整(適当に捨てる)する機能が弱いのだと思います。

遠回りをして最初の「生まれながらの自閉症はいない」に戻りますが、私が最初にそう思ったのは自閉症の子供を育てる友人の一言を聞いた時です。

「うちの子、最初は目があってたんだよ」

最初は目があっていた。でもある時から合わなくなった。それはなぜでしょう?私は敏感すぎる彼らが、周りからの刺激、特にあふれんばかりに注がれる感情に対応できなくなって、何かの感覚をオフにした結果、自閉症になったのではないかと思うのです。

生まれたばかりの赤ちゃんは、この世の全てが新しいです。音も、光も、ガーゼの肌触りも、ミルクの味も、匂いも。でもきっと何よりも強く赤ちゃんの感覚を揺さぶるのは家族からの感情でしょう。赤ちゃんを可愛がるのはもちろん良いことです。あふれんばかりの愛情を注ぐのは非難されることではありません。でも感覚が鋭く、自動的に強い刺激や不要な刺激を「捨てる」ことが苦手な子には、処理できないのだと思います。視覚・聴覚などの五感よりも、人の感情が一番人の感覚を揺さぶります。大好きなお母さんと目を合わせると、大きな感情が直接赤ちゃんに入ってきて処理しきれない。だから目をそらせて感情が直接入ってこないようにする。そして感覚の一部をオフにする。そうやって自衛するのだと思います。

そうして人の感情が直接入ってこないようにして育つと、「自分と他人の境界」というような、赤ちゃんが自然に学ぶものを学びにくくなります。

自閉症児によく見られる行動にクレーン現象があります。クレーン現象とは、何か欲しい物がある時に親の手首を欲しいものの場所まで持っていく行動です。これは「手首」を「欲しいものが取れる便利なもの」と認識しているのだ。と言われています。定型発達児は欲しいものがあった時、お母さんにそれが伝われば取ってもらえると考えますが、自閉症児にとってお母さんとお母さんの手首はつながっていません。もっと言うと、お母さんという自分以外の人間がいることをちゃんと学習できていないのです。

私もまだ勉強不足なのですが、赤ちゃんはこの世界を最初から理解しているわけではなく、一つ一つ体感して学習しているようです。赤ちゃんが自分の手を初めて見た時、その「手」が自分の一部だとは知りません。ひらひらさせたりしゃぶってみたりするうちに、「自分の一部だ」と発見するのだそうです。足もそうです。

そうやって「自分の発見」をしたら、次は「他人の発見」です。いつも見る「もの」があり、「それ」が見えるとミルクを飲めたり安心したりする。「それ」が見えるといつもいいことがある。そう思っていたらある時「自分以外の人間、お母さん」だと発見するのです。

自衛のために感覚をオフにしたり、目を合わさないようにしている赤ちゃんが、順調に「自分の発見」や「他人の発見」をできるでしょうか。私は難しいと思います。「自分」と「他人」が分からないのですから、「周りに合わせる」とか「相手の意図を汲む」といったことができるはずもありません。そうして彼らなりにがんばってこの世界に順応しようとしているのが、自閉症者なのだと思います。

ここに書いたことは私の憶測にすぎません。でも、自閉症と呼ばれる彼らが、敏感さと鈍感さの両極端を持っていることがずっと不思議でした。そして自閉症の人たちはそれぞれ、処理しきれない情報と格闘しながら、自分なりに手探りで世界を理解しようとしています。定型発達の私たちは自動的に不要な情報を「捨てる」ことができるおかげで、彼らよりずっと楽に世界を理解しています。そのことを少しでも多くの人が知ってくれたら、彼らの理解につながるのではないかと思うのです。