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あの日のアレ


あの日メダカを見た場所はどこだったのだろうか……
家からさほど遠くないところにハイキングコースがあったので、メダカのいる池ぐらいはあったのだろう。だが場所は覚えていない。

当時私は6歳で、まだ小学生になっていなかった。
気がつけば父が毎日家にいるようになり、家の中が不安定な暗い雲に覆われてしまった。
父と母の言い争う声だったのか、突風の吹く日や雷雨の日もあったように思う。

働かなきゃいけない人が働かなくなったんだ……と察した。


あの日は、父と二人で出かけた。
その途中にメダカを見たのだと思う。
ぼんやりとした記憶の中、はっきり覚えているのは夕食の映像。
出てきたのは小さい魚の佃煮だった。

さっきのメダカ……

昼間泳いでいた小さなメダカたちの姿が浮かんできた。私が見ていないときに父が捕ったのだろう。

……メダカを食べなくてはならないほど我が家は困っているのだ

私はその佃煮を食べることも言葉を発することもせず、ただぼんやりと小さな魚たちの目を見ていた。



今年の2月、父は他界した。
大腿骨の骨折で手術を受け、そのあと移ったリハビリの病院での入院中にコロナに感染した。一時は回復したものの、重い肺炎を発症し、退院することは叶わなかった。

耳が聞こえにくいのに補聴器を嫌がり、許されたオンラインでの面会では意思の疎通が難しかった。
一人ぼっちで隔離された時間はどれほど孤独だっただろうか。
最後の瞬間も看取ることはできなかった。

帰りたい。助けて。

画面越しに聞いた父の言葉が遺言の代わりに残ってしまった。



父の死後、事務手続きのために年金事務所を訪れた。
受け取った書類の中の一枚を目にした時、思わず視線を外してしまった。
そこには転々とした父の職歴が記されてあった。

私なりに精一杯家族を支えてきた。
学生時代のバイトから今に至るまで、親を助けることを優先してきた。
何か欲しいものはないのか、行きたいところはないのかと始終気にかけてきたし、たまには贅沢な気分も味わってほしくて両親に海外旅行を手配することもあった。
それは自分の懐具合からすると、度を超えていたかもしれない。なのに自分のするべきことだと思い込んでいた。
父の遺品を整理すべく部屋を見渡すと、そのほとんどが私が用意したものだった。

自分ほど親孝行な人間は多くはない。
疑いもなく思ってきた。

……いや、そうでもないかもよ
あの紙は伝えようとしていた。

父が本当に苦しかったのは、まさしくあの頃だ。
幼い私と一緒にメダカを見たあの日は、ちょうど苦労が始まった時期だろう。
そのあと、短期間に職を何度も変えていた父。数ヶ月家にいることもあった。
妻や子供さえいなければと何度か思っただろう。もっとラクな選択肢もあったはずだ。

父が一番辛かった時に私は何もしてあげてはいない。
その当たり前の事実が、徐々に重さを増してきた。

晩年の父に対して、私はどう接していただろう。
耳の聞こえにくい父に、優しい気持ちで対応していただろうか。
温かい眼差しを向けていただろうか。
どこか偉そうな目をして、父を見ていたのではないだろうか…

父が本当に欲していたのは、金銭や品物なんかではなかったと思う。
温度のない言葉でもないだろう。もっと別の、子供のころには誰もが持ち合わせていたような、混ざりけのない、匂いのように漂う温かいものだったはずだ。
いつの頃からか、私はそれを失くしてしまっていた。
決して誇れるような娘ではなかった。



ここからは笑い話のようになってしまうのだが、あの日のアレはメダカの佃煮ではなかった。

正体はイカナゴ。
春先に瀬戸内海沿岸地域で捕られた稚魚で、その時期には買い求める人で行列ができることもある。
買った稚魚を皆急いで家に持ち帰り、作るのは〝イカナゴのくぎ煮〟。
煮上がった姿が釘みたいに見えるからだそうだ。

あれがイカナゴだったと誰かに確認したわけではない。ただ時間が経つにつれ、自然と判ってしまった。

まあ、メダカだろうが、イカナゴだろうが、その後の私の大勢に影響はなかったのだと思う。
ただ、未熟な誤解のせいで、我が家の貧窮を深刻に受け止めてしまった幼い日があった。それゆえ父を振り返る時、遠いあの日のメダカと夕食の佃煮が蘇ってきてしまうのだ。



お父さん、
阪神タイガースが日本一になったよ!
特等席で観てたよね?