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#5 私の自立は、一人暮らしを始めたことでも就職をしたことでもなく、母と縁を切ると決めた瞬間だった

フジイさんのエッセイ連載「どう生きたいかなんて考えたことがなかった」(全8回)。フジイさんは子ども時代に母から虐待を受け、一方ではアルコールに溺れる母をケアするヤングケアラーでもありました。母とは共依存の関係になり、いつも顔色を窺うように。「私がどう生きたいか」を考えられなかった、と振り返ります。

第5回では、母との絶縁を振り返ります。絶縁するまでには、大きな葛藤がフジイさんを襲っていました。

※本作品には、一部虐待描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

結婚を機に母と縁を切り、5年が経つ。

夫とその家族という新たな繋がりができるにあたって、母の存在は脅威だった。
精神的依存のみならず、経済的依存もあったためだ。

母と縁を切り、肩の荷が降りたというのが私の本音だが、縁を切った当初は、小さなアパートで一人老いていく母の姿を想像しては罪悪感に苛まれた。

母が孤独死したら私の元に連絡がくるだろう。母の遺体や、母が生活していた四畳一間の部屋を見て、私は何を思うだろうか。そんな想像ばかりが頭を巡った。

振り返ると、母と縁を切ってからもしばらく私は、共依存状態から抜け出せていなかったのではないか。「私がいなくなり、母は死んでしまうかもしれない」。本気でそう思い、自分を追い詰めていた。

 Photo by Gil Ribeiro on Unsplash

母と絶縁してから、母がどこまでも追いかけてきて、殺されそうになる夢を見る。ロープを私の首にかけようとする母の表情は思い出せない。

殺される直前、自分の叫び声や泣き声で目が覚める。こわばっていたのか、体が鉛のように重い。

悪夢から目覚めたとき抱いているのは恐怖ではなく、「やっぱり私のことを恨んでるんだね」という気持ちだった。

私はどこかで、母を捨てた罪悪感を捨て切れずにいるのかもしれない。

父と兄に逃げられ、精神的・経済的に私に依存するようになった母

新卒で就職してから半年、家を出て一人暮らしを始めた。母は、私の家の近くの空きアパートを探し、「引っ越すからお金を貸して」と言った。私は、近くに母が来ることがいやでたまらなかったのに、言われるがままにお金を出した。奨学金を返済しながら、必死で貯めたお金だった。

なぜ、そこまで母の言いなりになっていたのか、言葉では説明ができない。洗脳にも近い状態だったのかもしれない。

父と兄に逃げられ、精神的・経済的に私に依存するようになった母を、自分が助けなければいけないと思っていた。なんとか母に自立してほしい気持ちもあった。家を出る前も出てからも、母を金銭的に援助しながら支えた。

とはいえ、生活費や奨学金の返済があったため、援助にも限界がある。一刻も早く働いてほしいと、母に伝え続けていた。だが母は、兄を出産してから30年以上一度も働いたことがない。就職情報誌をペラペラとめくっては「時給が安い」「体力が持たない」「病気だから無理」などと理由をつけて働くのを嫌がった。

母が働けそうなところを私が探してきても、「美容院に行っていないから外に出られない」「着ていく服が無い」などとごねた。仕方なく面接用の服や靴を一緒に買いに行くと、「これ母さん(私の祖母)に贈ってあげよう」などと言って、親戚へのプレゼントまで買わされる始末だった。

それでも、母の自立する意欲を削がないよう細心の注意を払いながら、寄り添い続けた。

母がやっとスーパーの精肉部門で働けることになったときは、自分の就職が決まったときよりもうれしかったし、達成感があった。

これで母は自立できる。

だが、母は働き出すと「社員からこんなことを言われた」「体がしんどくて行きたくない」などと毎日電話してくるようになった。

携帯電話は私が母に買い与え、料金を支払っていたものだ。毎月1万円を超える母の携帯料金の請求を見ては、ため息をつく。私の家にアポなしで突撃しては、仕事の愚痴を言いながら、節約のために作っていたおかずや米を無断で持ち帰る母に嫌気がさすこともあった。

私はそれでもグッとこらえて、そのたび励ました。

だが母は、2ヶ月も経たないうちに仕事を辞めてしまったのだった。

 Photo by Gil Ribeiro on Unsplash

このとき、私の心はポッキリと折れたのだと思う。結局母は、どんな環境に置かれても不満を吐き続ける。人に依存しないと生きていけない。私は搾取され続けるし、母はそれを悪いとも思っていないのだ。

母から逃げなければならない、やっとそう思い始めた。

母との連絡頻度を徐々に減らし、家に来たときは居留守を使った。完全に断ち切れたのは夫との結婚を決めたタイミングだ。

連絡先をブロックし、母の知らない場所へ引っ越した。

自分を裏切った父に頼る悔しさ

緊急時、気軽に頼れる家族がいないというのはなんとも心細いものである。

母と絶縁する前年、距離をとり始めた27歳のとき、こんなことがあった。

ある雨の朝、寝坊で会社に遅刻しそうになり駅の階段を駆け降りていたところ、勢いよく足をすべらせ、上から下まで転がり落ちた。

足が痛い、胸が痛い、頭が痛い。
バッグの中身が飛び出して、ホームに散乱している。
拾わなきゃ……。でも体が動かない。少し休んでから拾おう。駅のホームに突っ伏したまま、少し目を閉じた。

誰かが駅員さんをよんでくれて、医務室に運ばれた。

スネと膝がえぐれていた。傷口をテープで塞ぎ、応急処置をしてもらう。お礼を言ってホームに戻る。上司に状況報告の電話を入れて、会社に向かった。そのまま病院に向かえば良かったのだろうけど、早く会社に行かなきゃ、とそれしか頭になかった。

会社に着くと、医務室で手当をしてもらった。保健師は傷をみるなり、「うわ〜縫わなきゃだめだ」と言い、車で近隣の病院まで送ってくれた。

しかし、病院に入ったところで気づいた。お金がない。財布を見ると小銭が数枚。近くのコンビニに行き残高をみる。数百円だ。

家賃、生活費、奨学金の返済、母への援助。いざというときの資金は、給与天引きの財形貯蓄でためていたけれど、毎月末、口座に残るお金はゼロに等しかった。

どうしよう。途方に暮れて、泣きながら病院の周りをぐるぐると歩いた。足と胸が痛い。

 Photo by Gil Ribeiro on Unsplash

兄に連絡した。兄は「後から支払う」と言ってとりあえず診てもらえばと言って電話を切った。その選択肢もあったが、勤め先と提携している病院だったため、恥ずかしさからそれはできなかった。

少し考えてから、何年も連絡を取っていなかった父に電話した。何があっても頼ってこなかったけれど、痛みに耐えられず連絡してしまった。

駅から遠く離れ、何もない場所に佇む病院の周辺を歩きながら、振り込まれるのを待った。振り込まれた1万円を見て、涙が出た。やっと病院にいける安心感と、自分を裏切った父に頼ってしまった悔しさからの涙だった。

結局、脛を数針縫った。肋骨にはヒビが入っていた。

家族を自分で選ぶということ

冒頭、「母を捨てた罪悪感を捨てきれずにいるのかもしれない」と記したが、母と絶縁したことは一つも後悔していない。

親の言動や行動に潜む矛盾に気づき、本来ならば絶対的信頼を置く存在であろう親を「疑う」こと。必要ならば離れること。容易なことではないが、これができて初めて、自分の人生が動き始めた。

私の本当の意味での自立は、一人暮らしを始めたことでも就職をしたことでもなく、母と縁を切ると決めた瞬間だったと思う。

身体的・心理的暴力での支配はやがて、共依存に形を変えていた。当時は共依存だとは思っていなかったけれど、苦しみながらも母への金銭的・精神的援助を止められず、やりがいすら感じていた私もまた、母に依存していたのだ。

誰かに依存しないと生きられない母を心底嫌いながら、私は依存の沼に足を突っ込んでいた。

振り返るたび、母と距離を置くことを選択できてよかったと思う。

周囲には、「親を捨てるなんて」「親子なんだから関係を修復できる」「ちゃんと話せばわかり合えるはずだ」などと言う人もいるだろう。家族を捨てざるをえなかった事情があったとしても、「家族を捨てた」という事実に、世間は否定的だ。

そんな世間の声に嫌気がさす一方で、「愛」のある親子関係を築いている人にとって、「ちゃんと話せばわかり合える」ことは、揺るぎない事実なのだとも思う。理解されるのは難しいかもしれない。

だが、理解はせずとも知ってほしい。話し合ったくらいでは関係が修復しない家族関係はごまんとある。

「血縁」「親子」は絶対ではないし、私たちは家族を自分で選んでいいのだ。

自分の人生を生きるための選択をした人たちが、誰かに否定されることがない世の中になってほしいと、心から願っている。


フジイ
フリーライター。30歳を過ぎて脱サラ、文章を書き始めました。
Twitter: @fuji19900211

トップ画像:Noémi Macavei-Katócz on Unsplash

編集:遠藤光太(parquet)


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