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#3 はくじょうもの!死にかけてる母親を置いて帰るなんて!

フジイさんのエッセイ連載「どう生きたいかなんて考えたことがなかった」(全8回)。フジイさんは子ども時代に母から虐待を受け、一方ではアルコールに溺れる母をケアするヤングケアラーでもありました。母とは共依存の関係になり、いつも顔色を窺うように。「私がどう生きたいか」を考えられなかった、と振り返ります。

第3回は、ヤングケアラーだった過去についてつづります。大人になるまで、フジイさんは自身がヤングケアラーだったとは思っていませんでした。

※本作品には、一部虐待描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。

「お酒たくさん買ってる」

偶然通りかかったクラスメイトが、私の自転車のカゴに積まれたビニール袋をのぞきながら言った。小学校3年生のときのことだ。

母に頼まれ、近所の酒屋でいつものようにビールを買っていた私は、同級生にその姿を見られたことがたまらなく恥ずかしかった。

「親戚がたくさん来るから...」と咄嗟に嘘をつき、そそくさと自転車に乗ってその場を去った。

その時の気持ちを、いまだに思い出すことがある。

「世界で一番大好きよ」と必死で母を慰め続けた

ヤングケアラーという概念を知ってからしばらくは、自分とは関係のない話だと思っていた。

メディアでは、病気や障害で一人では生活できない親や兄弟の世話を担っている子どもの、深刻な現場が取り上げられていたからだ。私の母は酒に酔っていなければ料理や買い物、掃除などの家事をすることもあったから、自分の幼少期はヤングケアラーには当てはまらないと考えていた。

しかし、『現代思想』(2022年11月号)の「ヤングケアラー特集」で、社会学者の澁谷智子氏は次のように述べている。

私自身は、イギリスをはじめとして精神的なケアをしているケースのほうがどちらかというと重く捉えられていた感覚があり、日本でも『感情面のサポート(emotional support)』という言葉が意外と受け入れられていたと思います。(中略)精神面のケアは映像メディアで伝えにくい側面もあるのですが、やはり現場の実感としてはそちらの方が大きいですよね

これを読み、私もヤングケアラーだったんだと当時を振り返ることができた。

母は酒に酔っては「死にたい」「生きててもしょうがない」「なんで母さんばっかりこんな目に」「あんたの父さんはクズだ」などと言って、うなだれた。物心ついたときから、ずっと聞いてきた言葉だ。

私は、母の呪詛を聞くたびに言いようのない不安に覆われ、「いなくならないで」「世界で一番大好きよ」「いつも優しくしてくれてありがとう」などと、自分が知っているありったけの優しい言葉を使って母を慰めた。

すると、目に涙をためた母はほほ笑み「ありがとう」と言って束の間の落ち着きを取り戻すのだった。

こんなことが毎月のように、家を出るまで繰り返された。高校生になる頃には「またか」「どうせ死ぬ気はないくせに」と冷めた目で見ていたが、私が慰めないと母はいつまで経っても呪いの言葉を吐き続ける。

他人のネガティブな言葉を受け止めるのは、本来ならばカウンセラーや精神科が担う役目だ。子どもにとっては大きな負担となる。

こんな母と生活を共にしている私の精神状態は、いつも沈みがちだった。何をするにも楽しめなくなり、良いことがあっても心から喜ぶことはなかった。母のことが自然に頭に浮かび、心にモヤがかかったように喜べなくなるのだった。

無関心だった父の裏切り

殴られる私たちを、父は一度も助けなかった。いつも逃げるように、別の部屋に行ってしまう。

だが、私は父が好きだった。父は助けてくれないけれど、怒らないし殴らない。

そんな父の裏切りが発覚したのは、私が中学3年生のときだった。

ひらいた白いドアと、その向こうの暗闇

22時を過ぎた頃、家のインターホンが鳴った。こんな時間に誰だろうと、家族みんなが玄関に視線を向け、家の中がシンと静まり返る。

父が玄関に向かった。

私は父が心配で、離れた場所から様子を窺った。何かを話している後ろ姿は見えるが、話し声が聞こえない。おかしいと不安を感じて近寄ろうとしたら、父は訪問者とともに外に出て行ってしまった。

「連れていかれちゃった!」

私は母に泣きながら駆け寄った。それを聞いた母は急いで父のあとを追いかけた。

どれくらい時間がたっただろうか。二人とも帰ってこない。心配になった私は兄と外に出て、二人を探した。

すると、少し離れた場所から女性の怒鳴り声が聞こえた。声がする方に走っていくと、母が鬼の形相で見知らぬ女性に馬乗りになり、髪の毛をひっぱって殴りつけていた。

そばには、オロオロする父親の姿。

中学生の私にもわかった。父は不倫していた。相手の女性は酒に酔って、うちにやってきたらしい。

胸が圧迫されたように苦しくなった。大好きだった父が、まったく知らない人になってしまったような感覚に陥った。深い喪失感に襲われて、呼吸が浅くなる。

相手の女性を殴る母を見ながら、声をあげて泣いた。止めなければ、という思いとは裏腹に、足が地面に張り付いたように動かなかった。

父も、毎日酒を飲んではくだを巻いている母に、とうに愛想をつかしていたのだろう。母を面倒くさがり、腫れ物のように扱い、周りに助けを求めることなく逃げ続けた結果がこれだった。

父が逃げ続けた代償は、私たち兄妹が受け止め続けていたのに。

私は父に二重で裏切られた気持ちになった。

父への暴力と性行為、そしてオーバードーズを繰り返す母

父の不倫相手がうちに乗りこんできてから、母の飲酒量は大幅に増え、ますますおかしくなってしまった。意識の混濁もあるようだった。

早く離れればいいものを、「子どものために」という名目で父を家に縛りつけ、毎日口汚くののしった。それだけでは飽き足らず、倒れて動けなくなるまで殴り続ける。父も、不貞を働いた負い目からか、その状況を甘んじて受け入れていた。

父への暴力を見かねて止めに入ると、母は私のことも容赦なく殴った。カミソリを喉に当てられることもあった。けれど翌朝にはケロッとしている。殴られて血が滲んでいる私の目元を見て、「どうしたの?!」と心配した表情を見せる始末だった。

そして夜には、私が寝ている横で、母は父に性行為を求めた。父への暴力と性行為は、2年間、私が高校2年生になるまで続く。人生でもっともつらい2年だった。

高校2年生になるころには、母は完全に壊れていた。
私たちが家に入れないように家の鍵をかけることもあり、閉め出された私と兄は近所のファミレスで一晩過ごす。高校は休みがちになった。

高校を卒業するとき「あと1日でも休んでいたら留年だったよ」と担任の先生に言われ、「なんでもっと早く教えてくれなかったんだ」と肝が冷えたことを覚えている。

母は気の済むまで暴力を振るうと、今度は自殺未遂を繰り返した。包丁を自分の首に当てて喚き散らすときもあれば、薬を大量に呑むこともあった。


暗い病院の廊下。両側に椅子がある。

OD(オーバードーズ:薬の過剰摂取)で母が病院に運ばれたとき、気づくと私は深夜の病院の真っ暗な廊下で座っていた。どうやって病院に向かったか、医者になんと言われたか、どうやって帰ったか、なにも覚えていない。ぽっかりと穴が空いたように思い出せない。

翌朝、母を見舞いに病院へいくと、病室に入るなり怒号が飛んできた。

はくじょうもの!死にかけてる母親を置いて帰るなんて!

ずっと廊下にいたよ、心配したんだよと必死で伝えると、母はやっと満足そうな表情を見せるのだった。

そして、「胃洗浄したから、排泄物が炭でまっくろだったよ」と、子どもみたいに笑った。

自分がそのときなんと答えたか、何を感じたか、一つも思い出せない。

この頃父が、私と兄を置いて逃げるように姿を消した。

私たち家族には第三者の支援が必要だった

「イネイブラー」という言葉がある。
本人に自覚はなくても、依存を助長するような手助けをする人のことをそう呼ぶらしい。

たとえば、私もイネイブラーだった。小学生の頃から、私が母にかわって酒を調達していたからだ。母に「買ってこい」と言われたら、嫌でも断れなかった。「酒をやめてほしい」と言いながらも、おそらくアルコール依存症であろう母に、酒を運び続けていたのだ。

大学生、社会人になってからもそうだ。母に泣きつかれるたび、酒代を渡していた。酒が飲めないと母は料理酒に手をつけ、それもなくなると「なんで私ばっかり我慢しないといけないんだ!」と暴れる。心を鬼にして酒や酒代を渡さないようにしても、最終的には折れてしまう。この繰り返しだった。

当時は誰かに頼るなんて発想はまったくなかった。それどころか、内情を誰にも知られないように隠し続けていたように思う。だが、我が家には第三者の支援が必要だった。家族内でどうにかしようとしても、状況は悪化していく一方だったからだ。

福祉や病院、自助グループなど、家族以外のなにかしらとつながっていれば状況は違っていたのかも、と何度も当時を振り返る。

病院によっては、アルコール依存症当事者ではなく、その家族を入院させる場合もあるという。家族の心身の休息をはかるとともに、アルコール依存への理解を深めるのだそうだ。そこでイネイブリングしている自分に気づき、アルコール依存当事者との距離のとり方を知るケースも多いのだろう。

こういった情報に触れるたび私は、当時の自分の無知さを悔やむ。
私たち家庭が崩壊してしまった原因の一つは、家族全員が「情報弱者」だったことだと痛感する。

見栄もプライドも捨てて、とにかく「助けて」と誰かにSOSを出せていたら。その先の、今より少しだけましな家族の姿を想像しては、胸が痛くなる。

フジイ
フリーライター。30歳を過ぎて脱サラ、文章を書き始めました。
Twitter: @fuji19900211

編集:遠藤光太

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