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神を迎えるように人を迎える

こんばんは。
Parole編集部です。

当グループのスタッフは日々の朝拝・夕拝のなかでおこなう祓い・鎮魂をはじめ、節目節目で祭祀をおこなうなど、一人ひとりの中に「神を迎える」ということを実践しています。

この度、日々の生活の中で神を迎えるという態度やあり方、また生きていく上で大切にしたい基本姿勢の部分について、グループ代表から大切なメッセージが届けられました。

読者の皆さまにもご覧いただきたく、共有させていただくことにいたしました。


今、「神を迎える人の態度」が
テーマとなっています。

そのあたりでは、
歴史的な内容からすると、
春日大社に残っている
神を迎えるときの態度というか、
人としての有りようを表現したものがあります。

神様を迎えるとき、
掛け声をかけて迎える。
それは「しー」という、
静かにという「シ」でもあります。

それを出して
神様を迎えるというのが、
一番古来のお神輿というか、
神様を担いできたときに、
「しー」と言って始める、
迎えるということで長らくしてきました。

神を迎えるとき、
あるいは神を迎えているときは、
静かにというかですね。

静かにするということを前提とした生き方、
あるいは、神の迎え方をしたほうがいいかな
ということを感じました。
心を鎮めて、神と向き合うというかですね。

神に対する人の態度ということですけれども、
人が人に対する態度も、
あるいは、人がモノに対する態度も、
あるいは、人が機械に対する態度も、
意外と同じ目線というのか、
似たような対応がある
ということですね。

一事が万事ではありませんが、
人の神に対する態度というのは、
人が人に対する態度と対応するというかね。
人がモノに対する態度も同じことですね。

ですから、古神道は人が神だという、
そういう捉え方をするわけですね。
そういう態度を
人そのものにするというのか、
そういう生き方をしているわけです。

人が神に対する態度が、
人が人に対する態度、
人がモノに対する態度に繋がり、
それが直会というものに繋がるというかね。

人が神に対する態度だけが突出してしまって、
自分がすごいことをやっている
という意識になるのではなくて、
人がモノに対するときの態度と、
人が神に対する態度と、
そんな遜色なくできる

そういう表現ができるということが、
人としての本来の
コミュニケーションを司るときの
存在の仕方になるのかなと。

人が神を大切にするように、
人が人を大切にする。
人がモノを大切にする。

ということに繋がって、
初めて上手く理解できる世界が
あるのではないかと思います。

そういう感覚をもって、
物事を進めるということができると、
非常に新しい社会のありようが
見えてくるかなと。

そういう社会にしていくことが
可能であれば、
相当な広がりができるし、
病も、その問題が解決するのではないか
ということは非常に感じています。

そのあたりができましたら、
大きな変化を起こすことが
できるのではないのかなと感じました。

「シ」というものには、
神を迎える態度というものが
あったということですね。

そのあたりを意識することが
大切だと感じました。

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