曲折画像_公開

『曲折』 にみる詩の力

執筆:ラボラトリオ研究員  七沢 嶺

先日、次の詩がParoleに公開された。俳句や短歌の初学者である私が氏の詩を評するのは誠におこがましいことであるが、大きな感銘をうけたため感想を述べたい。また、詩を解釈するという行為自体を不快に思われるかたもいるかもしれず、その場合は深くお詫び申し上げたい。

     『曲  折』
     
     夏の光

     手を振る少年
     若い、臆病な感情になって
     とけていったのだ

    (Parole内の記事『曲折』猪早圭執筆より引用)

詩は俳句や短歌とは異なる叙述形式であり、得意とする点もそれぞれである。

俳句は五七五と最も字数が少なく、感情や時間経過を表現することに適さないが、ある瞬間の風景を切り取り表現することに適している。

一方、短歌は五七五七七と長く、俳句よりも多くを述べることができ、感情や時間経過を表現することに適している。秋の月や風等の自然に自己の気持ちを託すことや、感情の変遷を叙するのである。

詩は俳句・短歌にみられるような制約はないものの、五七調、七五調等、技術的な点は知られており(一般に前者が重厚、後者が軽い印象)、特に詠み手の感情を叙するに適した詩型である。そして、その叙情は、悲しい、嬉しいといった形容詞のみならず、時間、風景に託されることや、句読点、余白、改行といった表記上の技工により表現されることもある。

勿論、以上のように全てが単純ではなく、俳論・歌論・詩論の派閥によっても考え方は異なり複雑であるが、このような知識のもと考えると、詩が最も表現の柔軟性があるように思えるだろうか。「型の限定」という点においてはそうであろう。

しかし、俳句には俳句のよさがあり、短歌には短歌のよさがある。たとえば、俳句の場合、一瞬の風景を切り取る「切れ味」が魅力である。有名な芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」は、蛙が池に飛び込む瞬間が切り取られており、そのことのみを書いている。それ以上のことはなにも言っていない。しかし、言外には静謐な屋敷の庭や池の波紋の余韻があり、われわれの感性と響き合うのではないだろうか。

詩については猪早氏の『曲折』をみて考えていきたい。

夏の強い日差しのもと、少年が手をふっている。その少年が「臆病な感情」になり、夏の光にとけていったという。題は曲折であり、詩全体が複雑性の上に立っていることを暗示しているのではないだろうか。

以下は私の純然たる仮説であり、氏の本意と異なるかもしれないが、私が詩に触れたときに立ち現れた場面を何の装飾なく述べたいと思う。

真夏の太陽が、田舎道とその端にぽつりと立つ小さなバス停に照りつけている。道の中央に立ち、今にも走り出しそうな少年が、いつまでも私に手をふっている。

私と少年の距離は刻一刻と遠くなっていく。少年は陽炎のようにおぼろげとなり、ついには夏の光に消えてしまった。その瞬間、私と少年の間に張られたみえない糸のような臆病な感情が垣間見えたのであった。

詩『曲折』は、謹厳実直な日本の農村風景の叙景詩でもあり、「私」と「少年」の悲しくも美しい感情の叙情詩でもあると私は感じている。

少年の純粋な心、古きよき日本の農村風景は、私の魂を洗い、子どもの頃に感じた素直な感動を甦らせたのである。


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【七沢 嶺 プロフィール】
祖父が脚本を手掛けていた甲府放送児童劇団にて、兄・畑野慶とともに小学二年からの六年間、週末は演劇に親しむ。
地元山梨の工学部を卒業後、農業、重機操縦者、運転手、看護師、調理師、技術者と様々な仕事を経験する。
現在、neten株式会社の技術屋事務として業務を行う傍ら文学の道を志す。専攻は短詩型文学(俳句・短歌)。


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