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ゆらぎ 12 -あまりにもあいまいな(続編) スピリチュアルの師たちとの出会い

巧が労働運動に巻き込まれていくきっかけは、会社から執拗な組合潰し攻撃を受けていた、当時の社内組合の執行部のひとりJさんの「どうしたらいいのか、わからないわ。」と言って流した一粒の涙だった。

会社は、組合を弱小化させた果てに御用組織「職場を守る会」をでっち上げ、その代表の署名で就業規則を全面改悪し、その中に労基法違反の「年休8割条項」が入っており、不当な年休規制をしたのだった。

4期の乳癌が見つかったJさんに対して、「年休8割条項」に引っかからないように「這ってでも会社に来なさい。」とアドバイスした某政党派労働運動に対する絶望と反発が、巧を、某政党派労働運動の組合から脱退して、年休8割条項裁判を個人提訴させた原動力だった。
結局、Jさんは、帰らぬ人となった。Jさんの骨を拾っているとき、「這ってでも会社に来なさい。」という酷い言葉をJさんにぶつけた某政党党員が「かわいそうに。こんな姿になって。」と言ったひとことに、巧は怒りを感じた。あの時、「這ってでも会社に来なさい。」と、よくも言えましたね!と。

Jさんは、Mさんというレイキの治療師から治療を受けていた。末期癌の患者たちが、Mさんを頼って、わざわざ新幹線に乗って地方から治療を受けに来る程の「有名人」だった。巧の病気を心配したJさんが、巧に、Mさんを紹介した。それから、巧とMさんとの付き合いは、40年以上続くことになる。
Mさんは、レイキ治療の合間に、巧にスピリチュアルの巨人「高橋信次」を注入し、そして、「一遍」「宮澤賢治」をスピリチュアルとして教えた。レイキは、巧の一生の大事なツールとなった。

労働運動の仲間のAさんと、そのグループに、「愈気」「気功」を教えてもらった。「愈気」「気功」も、巧の一生の大事なツールとなった。

新入社員のKくんが、巧の課に配属されてきた。Kくんは、フランス語と数学を学び、フランスに留学し、帰国後、大学院で数学を研究していた多才な超秀才であった。ドイツ語の実力も申し分ないものだった。
MRIの仕事以来、巧に、最先端テクノロジー関係の仕事がよく来ていた。Kくんのところにも、数学者故、最先端テクノロジー関係の仕事がよく来ていた。職場では、巧の方が先輩故、Kくんは、よく巧のところに質問しに来た。巧とKくんが共働で、いい仕事をしたことがたくさんあった。
テクノロジーのパラダイムシフトを象徴するような仕事がふたりのところに来た。一緒に翻訳することもあった。傍で見ていると、ケンカしているのではないかと思われる程激論を闘わしたことがあった。結局、原文(ドイツ語)が自然言語故の曖昧さから、テクノロジーのエッセンスをリアルに表現できていないこと故の論争点だったことが判明した。真に正確に表現しようとすると、記号論理学並の記述を必要とするものだった。「階層」「メタ」というテクノロジーの思考がパラダイムシフトのひとつかと思う。古典的な「電気工学」の技術者には歯が立たない領域だった。

Kくんは、よく巧の席の横にチョコンと座って、仕事に関して質問し、ディスカッションしていた。本当のことを言うと、その内の半分以上は、二人の関心分野の話をしていた。Kくんの読書量は凄まじいものがあり、古代ギリシアからチベット仏教に至るまで、巧の関心領域とかなり重なるものだった。
Kくんは、巧にヴィパッサナ(Vippasa)瞑想を指南した。ヴィパッサナ瞑想は、スポンジに含ませた水のように、巧の血肉となっていった。そのなかでも、ゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想が二人の瞑想方法だった。この瞑想に関しては、巧にとってKくんは、師であった。このゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想は、巧の、その後の人生そのものと言っても過言でない程、最も重要なものとなった。巧の基層である。
Kくんと、昼休みにスピリチュアルのトレーニングをしたこともあった。一種の「テレパシー」の実験だった。
少し、不思議なことなのだけど、はっきりした記憶はないのだけど、いつの間にか、『メタトロン』ということばが巧の脳裏に、Kくんと一緒に刻み込まれた。カバラの話もたくさんしたので、そのなかから、自然と記憶に残ってきたのかもしれないが。
巧は、Kくんに、「いちばん関心がある数学の分野は何?」と聞いたことがあった。Kくんは、「神聖幾何学」と即答した。Kくんは、いろんなスピリチュアルツール・グッズを巧に紹介したが、「なるほど!」と巧は了解した。しかし、数学系の大学院ではむずかしい立場だったのかもと思った。
巧は、Kくんに、「『全体』そのものと取り組む「数学」はあるの?」と質問したことがあった。Kくんは、「それはないなぁ。」と言いながらも、翌日には、あるスピリチュアルのテキストを持ってきてくれた。「これをあげよう。」と。その本は、いまだに巧の大事な愛読書のひとつになっている。

Kくんは、その後暫くして、若くして突然他界した。

そのずっと前に、巧はKくんに訊ねたことがあった。「死ぬのって、怖くない?」と。Kくん「ぜんぜん怖くない!」との返事だった。巧にとっては不思議だった。Kくんは、巧にとって、足元にも及ばない程の高みに辿り着いたスピリチュアルの巨人だったのかもしれない。
巧は、思う。ドイツ人経営の会社に、労働運動に巻き込まれて、結局、30年もの時間を費やしたのだが、ある意味、人生を棒に振ったのだが、この「針の筵」体験は、Kくんと出会うためだったのかもしれないと。それ程、Kくんの存在は、巧の人生にとって大きなことだった。
実は、巧も、Kくんと出会う前から漠然と意識せずに、ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想の本質を実行していた。しかも、ゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想の本質的なところを生きていた。それを、しっかりと、ことばで、こころで、定義してくれたのが、Kくんだった。文字通り、Kくんは、巧の瞑想の師グルである。
(写真は、Manichaeismの宇宙図)


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