通学輪廻

 食パンを齧って、あの曲がり角を右に行けば少女が青年に出会うように、私もあの人に会えるのだろうか。
 毎日、スーパーのプライベートブランドのやっすい食パンに薄くマーガリンをつけて、ほぼ保存料でできた苺ジャムをつけて、コーヒーで流し込む。あの日を再現し続けている。おかげで日々の感覚のズレを認知することができた。
 雨で混雑率が倍になっても、雪が降っても、なんとしてでもこの時間帯の電車に乗る。あの日を再現するために。
 今日は居なかった。


 あの日に拘り続けているが、何があった訳でもない。高校時代、通学しているとサラリーマンの男性と目が合った。それだけだ。何度かあの顔を見かけたことはあったが、顔を認識したのはその時が初めてで、曇り空を連想するような人間不信を感じた。つり革を両手で持っているし。
 しかし、私の顔を見るなり、ずっと凝視し続けて、口が半開きで、瞳孔が点になるのだ。その一瞬の画だけしか思い出すことができない。と言っても、自分で作り上げた虚像に過ぎないのかもしれない。

 次に遇ったのは、高校二年の夏。電車の中で日焼け止めを塗っていた。視線を感じるので見上げたらサラリーマンがいた。目が合うと、目を逸らすので、日焼け止めを塗り続けるが、それをずっと見ていた気がする。

 その次に遇ったのは一年後。受験前ですっかり意識下になかったが、視線を感じるので見上げると、あの顔があった。なにかしたいと思ったときにはサラリーマンは降車していた。

 私は高校二年の夏からサラリーマンを意識し、確実に色気づいた。高校生だから、何も実績は無かったけれど、すれ違い様に視線を貰うようになった。私はそれを追いかけるが、あのサラリーマンはなかなか現れず、かと言って全く見かけない訳でもなかった。
 痴漢に遭う度、あのサラリーマンだったらいいのにな、と思いながら睨み返すと大体違う人だった。

 大学も地元の私立に通い、あの電車を使う。一限すらないのに早く登校したりしたこともあったが、大学時代は一度も見かけることがなかった。

 就職活動が失敗し、派遣でバイトをすることになった。再びあの電車に乗ると、あのサラリーマンがいた。
 サラリーマンは私の視線に気づいていないようなので、こっそり陰から見つめることにした。サラリーマンは長ったらしい髪の毛の上から、せかせかと綺麗なハンカチで拭う。サラリーマンはジュンク堂のカバーがついた文庫本をぺらぺらと捲っていた。その内、降車した。

 いつか、あのサラリーマンの後をつけたい。そう思ってまた一年が経った。私はすっかり人から振り向かれることがなくなった。彼氏は一回できたことがあるけど、別れてしまえば何にも覚えていない。

 しかし、その機会は意外なところで遭遇する。帰り道、ゲリラ豪雨で電車が運休になった。バスを使うことにした。
 盥からひっくり返したようなだらだらが、ワイパーで何度掻いても続いていくようすを見て、気が滅入った。
 ふと、目に入ったのが、きれいなスーツ姿の女性だった。見とれていたら、隣に男の人が飛び込んできた。
 あのサラリーマンだった。
 センチメンタルに浸ろうかとも思ったが、そもそもそんな次元でサラリーマンに幻を見ているわけではない。サラリーマンを思って夜を過ごすには、今の記憶量ではもはや出涸らしなのだ。
 バスの運転手がご機嫌斜めになるのもお構いなしに、バスを途中下車し、オフホワイトのスカートから下着の線が見えるのも無視して、ゲリラ豪雨の中サラリーマンを追った。

 サラリーマンらは居酒屋に入り、二時間談笑の後、とあるアパートに向かった。サラリーマンは井上と言う。二人が部屋の中に飛び込み、灯が消えていくのを、貼りつく水気でかじかみそうになりながら見つめていた。

 私は近くのラブホテルにひとり泊まった。たまたま点いていたアダルトビデオが、女上司とのNTRだった。見ていて、脱力感なのか絶望なのかわからないけれど結局は興奮できた。

 翌日。素知らぬふりして、あの電車に乗った。さすがにラブホテルのチェックアウトの後に先回りしてサラリーマンをつける気にはなれなかった。それに若干風邪気味だし。
 電車に揺られていく内に、あと幸運なことに座れたこともあり、すやすやと眠ってしまった。よだれが自分の手の甲に落ちて、気が付いたら電車の中には誰もいなかった。
 終点まで流されてしまったようだ。

 会社に休暇を電話で申請した。どうせなら、サラリーマンがいつも下りていた駅に行ってみようと思い、その駅で降りた。
 就職活動で散々下車して辛い思いを噛みしめたこの地で、あのサラリーマンは働いている。それは私とサラリーマンが永遠に言葉を交わすことが出来ない所以なのだろうか、と思いつつコンビニでおにぎりを二個と綾鷹を買ってイートインスペースでぼんやり食べた。
 海が近いから風が強い。海は見えないから気分は高揚しない。

 現時点で、欲しいものがある。サラリーマンとの接触。永遠に叶いそうにないものがある。サラリーマンとの交流。
 どんなに自ら勇気を踏み出しても、噛み合う運命はないのだろうか。普通なら、泣けるほど切ない気持ちなのだがなにぶん自分に非がありすぎて冷静でいることをやめられない。
 梅干しの酸がきつすぎて、その理由では泣きそうになった。しかし綾鷹があまいので何事もなかった。

 せっかく休んじゃったし、悲しいまま終わるのは嫌だったのでカラオケでフリータイムを頼んだ。一貫してローテンションのまま会計時刻になり、会社員料金を初めて取られた。

 天気があまり良くないので、店を出るとあたりは暗かった。
 お財布は空に近い。定期券しか頼りになるものがないので、なるだけ歩いて帰る。寒いので尿意を催してきたが、めぼしいトイレ場所が見つからない。コンビニは何か買わなきゃいけないような気持ちになるので避けたい。
 我慢できず、途中で遭遇した公園の公衆便所に入った。とても汚かった。トイレットペーパーがどろどろになって散乱して、汚物入れが公開されている。蠅が顔を撫でて大変不愉快だった。

 トイレから出た途端、誰かの足音が気になりだした。過敏である質なので、警戒して早歩きをしているがまだついてくる。ここまできたら走ることにした。目的の駅に向かって猛ダッシュした。その早々思いっきりつまづいてしまった。大通りでの失態に恥ずかしくなって、つい暗がりにひっこんでしまったら、手首を掴まれた。
「ひぃっ」

 振り返ることができず、引っ張りこまれるがまま、口を塞がれ、私は闇に葬られることになった。
 それも束の間。

 いきなり拘束から解放されて、その反動で私は再び大通りに出た。やっと振り返ると、何やら揉めている。
 その中の一人が、これ以上なく下品な顔立ちだったので、嫌悪感を覚えて去ってしまった。

 あれから、あの電車に乗ることはなくなった。
 だけど、どうして心の中が空っぽになってしまったのだろう。それは失恋したからなのか。でも納得の結果ではあるのだが。

 それからしばらくして、共通の知り合いを通じて彼氏ができた。このままいくと結婚するだろうし、相手がそろそろ異動するので、職場も住まいも変わることになるだろうな、と予測していた。
 その日は珍しく二人とも元気があったので、繁華街まで出てデートをした。大量に美味しいものを食べたため、歩いて無かったことにしよう、という話になった。

「もうすぐ駅だね」
「私ここら辺で暴漢に遭ったことあって、それ以来ここ歩くの久しぶりだわ」
「へえ。ここ治安悪いもんね。ほら、あそこで発砲事件あったじゃん」
「へー。そうなんだ。確かに、花が手向けられてる」

 同じ種類の白菊が一本一本置かれている。なんとなく見てたら、そこに人がやってきた。彼女は似たような白菊を持っている。遺族をあんまり目にしたくないが、あまりに厳かな空気を纏うので、目を凝らしてみた。
 サラリーマンの女だった。