『わたしのつれづれ読書録』 by 秋光つぐみ | #19 『学術小説 外骨という人がいた!』 赤瀬川原平
#19
2023年2月22日の1冊
「学術小説 外骨という人がいた!」赤瀬川原平 著(白水社)
あなたは「宮武外骨」という人物をご存知だろうか。
と某ペディアには記されている。
私は修行の最中、様々な古い本や古い雑誌や古い紙ものに触れることで、古いものから新しい発見を得ては心を揺さぶられる日々を送っているのだけれども、「宮武外骨」はそんななかで出会った人物の一人。知ってしまったが最後。名前を見かけては手を止めてしまう、頭にこびりついて離れない、興味の対象の大半を持っていかれて戻ってくることができないほど、私にとっての気になる人物、「宮武外骨」。
「入獄4回、罰金と発禁で29回。」
外骨を語るうえで欠かせないフレーズである。明治大正期、現在よりもずっと自由への扉が閉ざされた時代に、果敢に過激なメッセージを帯びた印刷物の発刊に挑み続けた、変態的武勇伝の持ち主である。
この連載でいつか取り上げたいとは思っていたものの、それにしてはあまりに面白い存在。私のお猪口程度の器では到底その面白さは伝えられない、準備ままならぬ半端な気持ちで私の「好きな人」を公開するわけにはいかない。そうやって喉の奥まででかかった塊を飲み込み続けていた。
しかし、そんな私の気持ちと完全に一致した本が既に合った。それが今日の一冊。
赤瀬川原平氏による『学術小説 外骨という人がいた!』である。
昨晩、我が本棚の、ほぼ積読と化した一体を眺めていたところ、この本とパチっと目が合った。1日のうちに私が自分の棚を最も長く眺めるのは、お風呂上がりにドライヤーで髪を乾かすときだ。髪を乾かしながら、次はどれ読もう、読書録では何を紹介しよう、この作品早く全巻集めたいなど、髪が乾くと同時に心も乾かし、それを潤そうとするかのごとく、本に対する煩悩も溢れてくる。もはや「読む楽しみをあたためるための積読」とでも言っておこう、そしてその中からついに手に取ることとなった。
(つまり昨晩から読み始めて、未だ読了していない。昨日の寝る前と今日の出勤中の電車内で没頭、今ちょうど半分くらい。)
冒頭を読み始めてハッとした。
「ワカル‥」。
赤瀬川氏と私の決定的な違いはある(私が外骨の面白さを表現できないのは完全に「私の力量の問題」‥当然である。)ものの、私が好きだと言いたいのに上手く伝えられる自信がないのは、赤瀬川氏も同様だったということを知ったら、それはもう納得。私は安心して、この連載の今日の一冊に、いま、ピックアップしようと試みた次第である。
「宮武外骨のことで、ちょっと‥‥」と彼について執筆の依頼を受けても、なかなかすぐに頷くことができなかった著者。「はじめに」では、その事の発端からこの本を書き始めるまでの経緯が語られており、外骨を好きなのに容易に語ることのできないもどかしさや情けなさに共感しつつ、ものの数行で既に引き込まれる。
ここで著者、赤瀬川原平氏について。
そして、この『学術小説 外骨という人がいた!』を通して、外骨リバイバルを仕掛けるという功績を残しているのだ。
赤瀬川フィルターを通して語られる「宮武外骨」。本書でも述べられているが、それは「宮武外骨」伝記とは異なる。外骨が明治大正期に発刊した『ハート』『スコブル』『滑稽新聞』などの中の最重要頁、最重要記事を掲載しながら、細かい部分まで読み込み(読者にもしっかり読ませ)、解説が繰り返される。
「外骨は面白い、それを紹介している私というのはどうしても面白くない人物になっていく」と一度は挫折しながらも、粘り強く彼の「面白さ」をとことん追求していく。
考現学の講師として、美学校で「外骨」について講義を行なっていた赤瀬川氏。外骨による出版物を「スライド」を使って見せながら、念入りに分析していく。その粘着質な探究心はもはや外骨さながら。そして次第に、この本の読者自身(私)がその講義を受けているかのような錯覚を起こさせる、そんな演出にすり替わっている。
外骨自身の面白さと赤瀬川氏の巧みさを、二重で味わっていることに気がつく。なんたる贅沢の極み。
宮武外骨が大量の印刷物に頑なに託してきたこと、それを浴びた赤瀬川氏がここで述べていること。それは一体どんなことなのか、この一冊で堪能することができる。
己の中に何かをくすぶらせて抱えている方、表現するうえでさらなる脱皮を遂げたい方、かつて生きた「面白い」人物を知りたい方‥
そんな方々への突破口となる価値ある一冊である。
私はそのような願望はなにもないが、寝る前にお布団の中で、「フッ」とか「クックッ」と笑いたくて、読んでいる。今夜も続きを読むのが楽しみだ。
PARK GALLERY 木曜スタッフ・秋光つぐみ