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『楽』だから、みんな『謝罪』するのだと思う

先日、報道ステーションの富川アナがウイルス感染したことを15分間ひたすら説明する姿が放送されました。

その姿はまるで「犯罪者」のようだとネット上では話題になりました。真摯に仕事に取り組んでいて、不可抗力で感染しただけなのに、何も悪いことはしていないのに…。

日本ではこのような『目的のない謝罪会見』が度々報道されます。


▼そもそも『謝罪』の目的とは?

『謝罪』とは「自らの非を認め、相手に許しを請う行為」です。つまり『謝罪』は「相手」がいて初めて成立するのです。

相手がいないのに謝っても何の意味もありません。被害を受けた人がいて、その人に対して謝るなら分かります。そうではなく、世間に対して謝るというのは目的を見失っているように思えます。「お騒がせして申し訳ございません」と言うなら、本来はそれを報道して騒ぎ立てたメディアであり、わざわざ世間を騒がせたメディアに非があります。

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▼『謝罪』は『責任と権限』から生まれる

もっと深く見ていけば、『謝罪』は『責任と権限』から生まれます。

例えば、会社の社長が株主に謝罪したりするのはまさにそのためです。社長には『会社に利益を上げさせて株主に利益を還元する責任』と『会社をコントロールする権限』があります。にも関わらず、それを達成できない場合には、責任を果たせなかったとして謝罪する場合があります。

そして、『責任』と『権限』は表裏一体です。

『責任』を持つ者は、それ相応の『権限』を持ちます。

社長は『会社に利益を上げさせる責任』と『会社をコントロールする権限』を持つし、総理大臣は『日本という国家を守り国民を幸せにする責任』と『多くの国民を動かす権限』を持ちます。私のような下っ端サラリーマンは、『個人の仕事を達成して会社に利益をもたらす責任』と『仕事に必要な人を動かす権限』を持ちます。

大きな責任には大きな権限がつきものだし、小さな責任には小さな権限がついてくるものです。

だから、本来必要以上の責任を負ってはいけないし、必要以上の権限を負ってもいけないのです。

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▼『社会的責任』と『社会的権限』

『責任』と『権限』の関係性は社会的責任にも通じます。つまり、『社会的責任』を負うということは、常に『社会的権限』を要求することも意味しています。

企業は自社が『取り組めるだけの社会的責任』と『そのための権限』を持つべきであり、必要以上に持つべきではありません。

例えば、企業が社会問題や病気についての社会的責任を要求されたとします。企業のマネジメントはそれが「自社の責任範囲であるかどうか」「自社の権限を持っている部分かどうか」を冷静に徹底的に考えるべきです。そうしなければ、企業は必要以上に権限(越権)になり、果たせもしない責任(無責任)になります。

企業が責任を要求されたときは、必ずそれについて「権限を持っているか、持つべきか」を自問する必要がある。もし権限を持たず、また持つべきでないならば、責任を負うことの是非に疑いを持つべきである。事実、きわめて多くの分野において、企業はそのような権限を持つべきではない。あえて責任を持つということは、権力欲の一つの現れにすぎない。
(ドラッカー『マネジメント』103P )

だから、何に対して『責任と権限』を持つのかは自分自身で決めるべきです。

マスコミやメディアを見ると、皆好き勝手なことをいいます。でも最終的に何に対して『責任と権限』を持つのか決めるのはいつも自分自身でなければなりません。

デュポン社とデラウェア州の関係についてもそうです。

デュポン社はデラウェア州に本社を置き、その最大の雇用主でした。その状況について2つの異なる批判が舞い込みました。

・ラルフ・ネーダーの報告書
デュポン社は経済的効力を行使して、デラウェア州の人間に社会問題に取り組ませるべきだ。デラウェア州の社会、政治、法律についての責任を果たさなかったため、その社会的責任を怠っている。
・左翼の意見
デュポン社は経済的効力を行使して、小さな州において傑出した存在となっており、州に対して干渉し、支配し、不当な権限を行使している。

どちらの意見も正しいことを言っていますが、どちらも達成することは不可能です。企業は何に対して『責任と権限』を持つのか自分自身で決めなければいけないんです。


▼まとめます

『責任』と『権限』は表裏一体であり、どちらか一方を手にすることは決してできません。『大きな責任』を持つ者は、それ相応の『大きな権限』を持ちます。

組織、特に企業はともすれば「やれ社会的責任を果たせ」「やれ環境をもっと意識しろ」と勝手なことばかり言われてしまいます。でも、それを全て受け入れるのではなく、自分自身でしっかり考えないといけません。

なぜなら、『社会的責任』を引き受けることは、その分の『社会的権限』も引き受けてしまうからです。そして一度引き受けてしまった『責任』を果たせなかった場合、『謝罪』という行為に発展することが多いにありうるからです。


▼補足 『謝罪』は『楽』

テレビやYouTubeを観ると、『謝罪動画』なるコンテンツが乱立しています。皆悪いことをしたら謝罪することが多いですが、穿った見方をすれば『謝罪は楽』なのかなと思ったりします。世間の批判を抑えるためにはやっぱり謝罪することが効果的です。

こんなことを偉そうに言っている私も会社でよく謝罪します。だって謝罪は本当に楽なんですもん。謝罪すれば相手は大概許してくれるし、物事がスムーズに進む。しょうもないどうでも良いことであれば謝罪を手段として使うのは有効です。

でも、だからこそ『謝罪しない選択』には尊重すべきだと思います。

世間の言われるまま謝罪するのではなく、自分の考えであえて『謝罪しない』ことを選択する。そういう人は本当に自分の頭で考えているのだと思います。冷静に論理的に考えれば、芸能人の不倫や大麻報道など、謝罪しなくて良いのでは?なんて思ったりします。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

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