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「消費型趣味」に入れ込むのは不毛で低俗だと本気で思っている話

推し活にハマって困窮している若年層とか

一言で言うと「趣味が悪い」。これに尽きる。

世の中、もっとタダ同然で面白いことに溢れているのに。

そういうわけで「消費型趣味」に入れ込むのは不毛で低俗だと本気で思ってるけど、そう言うと「趣味に生産性を求めるな」という声も根強い。

が、いわゆる「推し活」なる概念に不快感があるのは、それがワンオブゼムに留まっており、かつそれを全肯定する概念だからと思う。

それこそ、貴重な可処分時間と可処分所得を膨大に「推し」に費やすくせに、たいした深掘りもせず、文化的な背景やコンテクストを学びもせず、生産・創造・資料整備(キュレーション)といった「主体的な関わり方」を一切合切放棄しているのが非常に腹立たしい。

没入して何かを起こす「オタク」ではない。ただ何も考えずに「推す」だけで、作品を右から左に受け流すのにアイデンティティすら見出している。それで外野から「生産性」とか言われてムッとするのは気持ちはわかるけど「開き直り」にも程がある。これは自分にとって耐えられないことだった。自分の才能やセンスといった可能性を見限り、架空の概念と一人で戯れるだけでしかない。これは真の意味での「堕落」ですらあると思う。

ぼくはそれと関わったが最後、どこまでも主体的にかかわるタイプだ。別にそんな努力も労力をかけていないが、なぜかその第一人者になってしまうこともある。そしてその後には誰もいない。誰もやらないからだ。

趣味の世界は、そんなものである。

そこに「愛」はあっても「使命」はあるんか

と言いたい。自分がやってることは他の誰もやらないようなことだから、という自負もある。消去法で、その始末人を請け負っているようなものだ。

が、そのような意地と気概が「推し活」には感じられない。

烏合の衆として終わることを否定するつもりはないが、ポジショニングと自分自身のセンスに、ちょっとした意識さえあれば、「使命」は運とは関係なしに、誰にだって開かれている道かもしれない。それが知性や教養というものにつながっていくはずだ。

「成長」はいらないが(成長を「目的」にしているのはお門違い)、一介のマニアでしかない自分が「推し」に対して何ができるのか。

あらためてそれを問い直し、スパチャといった「金銭を介した一方向的な関わり方」(こういう「通俗の極み」のような推し方を心底軽蔑する)以外の、オリジナルの「推し方」を見出してほしいものだ。それが生産性、ひいては存在意義や存在価値にさえつながっていくのだから。そこに気づかずに「生産性」という言葉だけにむやみに反発するのは単なる子供だと思う。

そういう人は「終わりなき学園祭」で一生ループし続けたいタイプだろうけど、自分は無理。(2024年4月7日)

©2024 虫塚虫蔵/迷路'24
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