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短編小説『今夜はカレー』

『今夜はカレー』

スパイスからカレーを作った事がないので死なない。彼は確かにそう言った。

私が彼と出会ったのは、まだ夏の蒸し暑さが残る季節だった。その日、私はいつも通りに登校するふりをして、学校をサボった。別に、本当に、なんとなくだ。お母さんに作ってもらったお弁当だって保冷バッグに入れて持っていたし、教科書やノートが詰まったリュックだって背負っていたし、きちんと行ってきますと言って家を出た。けれど、まだ朝だというのに僅かに熱を含んだアスファルトの上を歩いている内に、学生の義務を全うしようという気持ちは溶けてなくなってしまったのだ。

「具合が悪いので今日は休みます。」

担任の先生にスマホでそう連絡をすると、私の足は学校とは反対方向へと進んでいった。ここは田舎のシケた町だったが、女子高生の逃避行を咎める人物が見当たらないという点においては、評価に値するかもしれない。ついでに言うと一緒に登下校する友達が居ない地区に住んでいるという事実さえ、その日は幸運だと思えた。

家から十五分ほど歩いた所に、大きな公園がある。公園と言うか、山の一部を切り崩して人間の遊び場にしました、という感じの場所だ。山頂へと続く道は子供でも登れるような緩やかな登山コースとなっており、登った先には見晴らしの良い高台と申し訳程度のアスレチックがある。麓の方には妙に長い滑り台と、一般的な公園で見かけるような遊具。そして大きな池があり、その周りはぐるりと散歩コースになっていた。休日には家族連れや自然と戯れに来た人達で賑わいを見せるこの場所も、平日の朝となれば話は別だ。登山コースを散策している老夫婦の姿は確認できたが、他には人影が無い。私は池の横を通り過ぎ、公園の端にある東屋へと向かった。その東屋には、屋根と簡素な長椅子しか無い。雨宿りとか、短い時間を過ごすにはもってこいの場所だったが、ここは普段から人気が無かった。公園の中にはベンチがいくつもあるし、そもそも地面にレジャーシートを敷いて休む人達が多いのだ。こんな名前も分からない虫が湧いているほぼ森の一部みたいな、茂みと木々に隠されてしまうような東屋に用がある人間はほぼ居ないというわけだ。
まぁ、私みたいな物好きのためにあるのだろう。
私は椅子の上を手で払ってから、制服が汚れる事なんて気にせずにどさっと腰を下ろした。リュックと保冷バッグを隣に置き、ぐっと伸びをする。別に目的は無い。ただ、このまま家に帰ってお母さんと顔を合わせるのも何だし、公園に人が増えだすお昼頃までには早退したという体で帰ろうと思っていた。それまでの時間つぶしだ。他にどこか遊びに行けるような場所も無いし、私はこんな田舎が意外と気に入っているのだと思う。

「サボりかい。」

ーーー突然、声がした。

「えっ?」

私が思わず顔を上げると、対角線上に人が座っていた。黒いスーツをだらしなく身にまとった、何というか他に着る服が無いから仕方なくスーツを着ているみたいな見た目の、くたびれたおっさんだった。

「学校、サボりかい。今日は木曜日だってのに。」

おっさんはそう言った。酷いクマのある目で私を見ている。私が東屋に入った時には、確かに誰も居なかったはずだ。だとしたら、私の後を追ってきたどこぞのJK大好き変態おじさんか。しかしこの場所は茂みの中にあるし、どこかに隠れていたにしても、身動きをすれば物音くらいしそうなものだが。

「一番だるいじゃないですか、木曜日って。」

私は咄嗟にそう答えた。一応リュックを膝の上に乗せ、スマホを取り出す。これでいつでもポリスメンを召喚できる。

「木曜日って、病院とかお店とか休みの所が多いじゃないですか。疲れる曜日なんですよ、きっと。」

私の言葉に、おっさんは納得したのか小さく頷いた。

「おじさんはね、水曜日が休みなんだよ。」

やべぇおっさんかもしれない。私が立ち上がろうとすると、おっさんは至って冷静に手でそれを制した。

「多くの人にとって月曜日が憂鬱なように、僕にとって木曜日ってのは憂鬱なんだ。だからね、サボったんだよ仕事を。」

「はぁ。サラリーマンですか。」

「いや、おじさんはね、スパイなんだ。」

やべぇおっさんだ。

「おじさんは世界の秘密、いわゆる陰謀論ってやつだ。パンにバターを塗ったらその面が下になって落ちるとか、折りたたみ傘を持っていない日に限って雨が降るとか、そういう誰かの陰謀によって引き起こされる事案をね、調査するのが仕事なのさ。その陰謀の傘下に潜入して。」

「えっと、バターのはマーフィーの法則ってやつですか?聞いた事ありますよ、きっと科学的に解明されてます。折りたたみ傘の件だって、天気予報を見て持ち物確認を徹底すれば防げそうですけど。」

「そう思わせるのがやつらの手口だよ。躍らされているんだ、君達は。天気予報なんてもの自体が陰謀だ、当たった試がまるでない。」

おっさんの話は意味不明で、とても事実だとは思えなかった。ただ彼は私から目を離し、まるで独り言のように掠れた声でぶつぶつと言葉を紡ぐものだから、特に危害を加えようという意思は感じない。ただ誰かに妄言を聞いてもらいたいタイプのやべぇおっさんなのかもしれない。下手に拒絶して逆上されても怖いので、私は努めて冷静なふりをして受け答えをした。

「いいんですか、スパイが仕事をサボるなんて。」

学校をサボった女子高生が、仕事をサボったスパイに訊いた。口にしてからはっとする。これは逆上スイッチではないか。押してしまったのではないか。私は不安になっておっさんを見たが、彼は相変わらず覇気が無く、ぐったりと椅子に身を預けている。

「バレちゃったんだよね。」

おっさんは、青白い顔でそう言った。

「僕がスパイだって、バレた。」

思わず息を飲む。もしこれがスパイ映画の一場面だったら、二番目くらいに盛り上がるシーンだと思った。

「僕は昨日まで、DVDを借りた翌日にテレビでその映画が放送されるという陰謀の調査をしていた。そんな許されがたい悪事を働いているやつの部下のふりをして、レンタルショップで棚に並んでいるバックトゥザフューチャーのDVDの枚数を増やしていたんだ。普段は興味も無い物がさ、さも注目の商品のように置かれていたら、何故だか無性に欲しくなったりするだろう。大人気!とか、新商品!とか、蛍光色の画用紙を切り抜いて作られたポップなんかが付いてたら最高だよね。今の季節だと、夏休み映画!とか、懐かしの名作!とかね。でも僕はバックトゥザフューチャーより、メンインブラックの方が好きなんだ。だからうっかり、バックトゥザフューチャー3のDVDだけ増やすのを忘れてしまった。3まであった事を失念していたんだ。それでバレた。」

「ど、どうなったんですか?」

「レンタルショップの店員は全員、この陰謀の手先なんだ。レンタルビデオの時代からそうさ。はっと顔を上げると、僕はショップ店員に囲まれていた。そして僕にバーコードリーダーの赤い光を向け、一体どこから派遣されたスパイなのかを吐かせようとした。意外と世の中には、陰謀論を暴こうとする組織が多いからね。でもそれを言ってしまうと、僕は所属している組織に消されてしまう。だから言ってやったんだ。宇宙人の出てこないSF映画なんて、あんこの入っていないアンパンだって。」

おっさんのどろりとした目が、私を捉えた。

「逃げたよ、二階の窓を突き破って。地面に落下するまでの時間が、スローモーションのように感じた。その時思ったんだ。僕には、やり残した事がまだあるんだ!って。でも冷静になって考えてみたら、無いんだよね。やり残した事。なんていうか、死の危機に瀕した際に咄嗟に湧き出たパトスって言うか。」

「ひとつくらい無いんですか、ほら、例えば娘の花嫁姿を見たいとか。」

「僕に娘は居ないよ。居たとしても、どこぞの男に取られる姿なんて見たいとは思わないだろうし。ついでにいうと妻も居ないし、家族や親戚も居ない。居たらスパイなんて危ない仕事なんてやらずに、平穏に熱帯魚ショップの店員になっていたよ。」

「じゃあ、熱帯魚を飼ったらいいじゃないですか。アロワナとかアマゾン川に居そうな得体の知れない魚とか、べらぼうに高価な魚を飼う事を目標にすればいいじゃないですか。」

「僕が死んだら、世話してくれる人が居ないからペットは飼えない。」

責任感のあるおっさんだ。私は何故だか、彼の情熱に火をつけて欲しいと思っていた。だから妙に必死になって、池の方を指さした。

「ほら、見てくださいあの池。ペットショップで出来心で買われた亀が、飼い主の勝手で不法に捨てられているんです。もううじゃうじゃ居るでしょ、アカピッピミシミシガメが!」

「へぇ、聞いた事のない亀だな。」

「イタズラに捨てられた亀が、イタズラに餌を貰っているんです。だからあの池に居る亀ってやたらとデカいんです、三十センチくらいの個体もゴロゴロ居るんですよ。」

「下手に飼われて餓死するよりは、彼らも幸せなんじゃないかな。」

「はい、だから、おっさんも餌とかあげに来たらいいじゃないですか。飼えなくても、亀に餌をあげて愛でるくらいはいいじゃないですか。」

「さっき、池の前でカメにエサをあげないでって看板を見たよ。」

「誰も守ってない決まりなんか、破ったっていいじゃないですか!」

興奮のあまり、私は立ち上がっていた。私の頭の中は、どうやっておっさんにパンくずを池に投げ込ませるかという問題でみちみちだった。おっさんは、怪訝そうな目で私を見た。たぶん私も、出会った当初は彼の事をそんな目で見ていただろう。

「アラスカに行くんだよね、僕。」

おっさんは告げた。

「昨日仕事を失敗したから、ショップ店員共からは逃げきれたものの組織がお怒りでね。クビにはならなかったけど、僕はアラスカ支部へ異動になった。今日はお説教される日だったんだ、だけどこうしてサボってる。だから、亀に餌はあげられないよ。」

「そんな・・・」

力が抜けて椅子にへたり込む私に、彼は初めて微笑みを向けた。笑顔という分類でいいのだと思う。口角がぎこちなく上がっていたから。

「でもね、やり残した事は出来たよ。」

おっさんは笑った。

「カレーをさ、スパイスから作った事がないんだ。」

スパイがスパイスの話をする瞬間を、私は目の当たりにした。

「いつもは、スーパーで一番安いカレールウを買って作るんだよ。中辛のね。でもカレーっていうのは、何種類かの葉っぱみたいなやつとか、香辛料を組み合わせて作るんだろう。昔テレビで見た気がする。きっとカレールウで作った方が安上がりだし、美味しいだろうけど、いつか作ってみるよ。六時間くらい煮込んだ、最高のカレーをさ。それまでは死なないよ。」

おっさんは、アラスカのスーパーの品揃えってどんな感じかなぁと呟いた。私はなんだか、泣きそうだった。

「本格的なカレーって難しそうだから、きっとおじいさんになったって無理ですよ。」

「そうかなぁ。クックパッド見てみよう。」

その時になってようやく、私は至極当然な疑問を抱いた。

「そういえば、スパイが知らない女子高生に仕事の話なんかして大丈夫なんですか?守秘義務とか、そういうの厳しそうですけど。」

「あぁ、大丈夫だよ。」

おっさんは事もなげに答えた。

「君は誰にも言わないだろう、学校サボってるんだから。」

そうか。私達は、サボり仲間なんだ。さて、と小さく呟くと、おっさんは椅子から立ち上がった。

「色々ありがとう、気が楽になったよ。」

心なしか、おっさんの顔色は良くなっている。きっと明日からは、またスパイの仕事に戻るのだろう。

「君も明日は学校に行くんだよ。それじゃあね。」

おっさんは小さく私に手を振ると、ぱっと消えた。一瞬、何が起きたのか分からない。目の前から忽然と、おっさんが消えたのだ。私は思わず周囲の茂みを覗き込んだり、辺りを見回したりしたが、あのくたびれた姿はどこにもなかった。白昼夢だったのだろうか。学校をサボった女子高生に対する罰とか。それがスパイのおっさんとの会話というのも、ナンセンスだが。
ーーー遠くから、親子の楽しげな笑い声が聞こえる。
我に返ってスマホで時刻を確認すると、すでに昼と呼べる時間になっていた。そんなに長い事おっさんと話していたのだろうか。私はリュックと保冷バッグを掴むと、自宅への道を駆けていった。帰ったら、お母さんに学校をサボった事を素直に謝ろう。そして厚かましくもお願いするのだ。

今日の夜ごはん、カレーにして。


                            (終)

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