ボート競技から学んだ人生の全て
自分は大学時代はボート部に所属していましたが、このボート競技が今現在の全ての仕事にも繋がる中核となっています。思い出を振り返りつつ、まとめていきます。
と、その前にボート競技を知らない人も多いと思うので簡単に解説してみます。ボート競技は漕ぎ手が1人〜8人かつ、舵取りが乗るか乗らないかによって多くの種類があります。その中でも8人乗りは花形種目で、「究極の団体競技」と呼ばれることもあります。
その所以として、他のチームスポーツであれば1人1人の動きはバラバラであってもチームの勝利のために全員で協力するという形ですが、ボート競技では全員がほぼ同じ動きをして1つの船を動かすのです。それはとても難しいことですが、全員の動きが揃って船が勢いよく動いた時の快感はすごいです。
そんなボート競技に魅せられた大学時代の話を書いてみます。
大学でボート部に入る
自分は体を動かすのは好きな方で、高校までは水泳部に所属していました。ただ好きとは言えそんなに得意なわけではなく高校では県大会にギリギリ行けるかどうかというレベル。ほどほどに部活をして、友達と仲良く過ごして、平凡な高校生活を過ごしました。
そんなこともあって大学がスポーツに本気に取り組むラストチャンスだと思って、大学では真剣に部活に取り組んでみようと思っていました。大学ではアメフト、ラクロス、ボートが学校として比較的強い競技で、高校の一個上の先輩がボート部に入っていて誘われたのもあってなりゆきでボート部に入ることにしました。
へなちょこ1年目
ボート競技は身長も高く、体も大きい人が有利なスポーツなのですが大学に入学した当初は身長170cm58kgとひょろひょろな体格でした。しかも高校の時はファッションに興味がありいろいろ服を買っていたので、なんとなく体を大きくして服が着れなくなるのが嫌、みたいな情けない考えもあり大学1年目は全然強くなれませんでした。
1年目の集大成としては秋にある関西の大学1年生がメインの大会なのですが、上から8人が1stクルー、次の4人が2ndクルー、そしてその下が3rdクルーになるのですが自分はこの3rdクルー。全体の成績としては5位となりまぁそこそこと言った感じ。なぜかこの秋の大会でみんな髪を染めたり外見で遊ぶことが多く、自分もこのタイミングで金髪にしました。
本気で部活に取り組もうという気持ちでボート部に入ったものの、1年目は完全に中途半端でとりあえず一般的な大学生として遊びつつ部活もやっていた程度でした。ただ、2年目は2年生しか出ることのできない毎年恒例の試合があるのです。それは学年の中の1stクルーしか出ることができないということで、どうしても自分はそれに出て勝ちたいという思いが芽生えていたので、2年目は本気で取り組もうと覚悟を決めました。
急成長の2年目
2年目の勝利のためにはやはり1年目の冬場のトレーニングが欠かせません。もうこの頃にはせっかく買った服が着れなくなるのが嫌、みたいなふぬけた考えは消えていて毎日トレーニングに励みました。その甲斐もあって今まで持っていたジーンズの股下部分を何枚も破るほど脚が太くなってパワーもついていきました。
そしてそのトレーニングのおかげで無事学年の1stクルーに選ばれるほどの実力がつき、クルーでの練習を積んで試合に臨んだ結果、歴代最高タイムを記録して勝利するという最高の成績を残すことができました。
もうひとつ、夏にはインカレという大学の全国大会があるのですがこれは学年関係なく部員全体での上位8人が選ばれて1stクルーを組み試合に臨むのです。1年目の冬のトレーニングによって体重は主に筋肉で増やして70kg近くまで成長していた自分はなんと、全学年の中でも8番以内に入る実力になっていたのです。
自分が2年生の初めての全国大会で5位入賞を果たし、大学入学の時に思っていた全国レベルの結果をここで残すことになります。ほんとに急成長の2年目でした。
全盛期の3年目
2年間である程度の実力をつけたこともあって少し気持ちに余裕も出てきたので、後輩とも一緒に練習をしてチームとしてのレベルを上げていきたいと思いだしたのが3年目です。
部内全体の中でも自分の学年は比較的強く、後輩・先輩ともうまく関係性を築けていたのでほんとに3年目は楽しくて仕方ありませんでした。3年生でも無事全学年の1stクルーに選ばれて昨年より良い結果を目指して頑張ったのですが、インカレ結果はまたもや5位。しかし、去年はなんとかギリギリ5位になったものの、今年は4位や3位ともかなり近いレベルの5位。チームとしての実力もあがってきたのを実感できました。
また、3年目はインカレ以外に全日本選手権という社会人も出場する大会においても5位入賞することができました。1〜4位は全て実業団の社会人選手だったので、実質大学生の中では1位ということで個人的にはとても満足する結果でボート競技の魅力にさらに引き込まれた1年でした。
苦難の4年目
大学は基本的に4年なので4年目が最終学年です。自分は理学療法士の資格を取得する学科だったこともあり、4年目は病院実習が半年くらいあり普通はもう競技を続けることができず引退となります。ただボート競技に魅了され、同学年や後輩にも強くなりそうな選手がおり、どうしても最終学年の4年目の競技を続けたかった自分は留年することを決意します。
親や学校の先生にそれを伝えるのはなかなか大変でした。でもそれを上回るほど競技を続けたい気持ちが強かったのです。この1年は本当にボートのことだけを考えて、勝利のためにできることは全てやろうという気持ちでした。
しかし、それがなかなかうまくいかなかったのです。自分の同学年には全国の23歳以下の日本代表に選出するくらいのレベルの選手がいたのですが、どうしても後輩たちのレベルが上がりきらずに8人のクルーを組んでもぎくしゃくしてしまうのです。
後輩たちは先輩についていこうと頑張るがなかなかうまくいかない、実力のある選手は後輩が自分たちについてこれないことにフラストレーションが溜まる。その間に挟まれていたのが自分でしたが、どうしてもそれを解決できずに本当に苦しい日々でした。
そして留年までしたものの、最後のインカレの結果は7位。今までよりも結果を下げてしまいました。自分が時間をかけて頑張るだけではチームの成長や結果に必ずしも結びつくわけではないという厳しい現実を感じる1年でした。
新しい幕開けの5年目
こうしてインカレが終わった後は留年して行かなかった分の病院実習に行っていったん選手として引退したわけですが、心の中では何かやりきれないもやもやした感覚が残っておりチームと一緒には練習できないものの、1人で少し運動をしたりしていました。
そして病院実習が終わって再度選手として復帰してしまいます。ボート競技は1人を8人乗りまであるため、5年目からは自分のやりたいように競技を続けるために1人乗りでやることにしました。
今まではチームの中でいかに他と人とも合わせつつ船を動かすかということを考えていましたが、1人乗りでは自分と船が存在するのみ。自分の体と船に全神経を集中させて漕ぐ中で、また新たなボート競技の魅力を感じ始めました。
世界を知る6年目
6年目があるということは、大学の学部を卒業した後に大学院へ進学したということです。学部生の時は本当にボート競技ばかりしていて勉強がおろそかだったのでもう少し勉強もしなければ、ということで大学院に進学したわけですが勉強だけでも飽きてしまうので競技としては継続していました。
6年目はチームに関わっていたコーチが海外の選手などとも交流が深く、香港、デンマークなど様々な国の選手をチームに招待して一緒に練習するなどまた新しくボート競技によって大きく世界が広がりました。英語は得意ではなかったですが、海外選手と交流するために拙い英語で無理やり話して、英語に対する苦手意識と少しずつ減っていきました。
大学院で勉強もしながらであったため、なかなか練習だけに集中することもできず結果は特に残せなかったですが、また新たな世界も広がった1年でした。
限界を知る7年目
そして7年目、この年に自分は選手として引退します。学業との両立がかなり苦しくなってきていますが競技を続けていて、大学院の国際学会に参加するのに合わせて無理やりボートの国際大会にも参加したのですが、ここで本当に世界の壁を知ります。
日本ではそこそこの成績を残した自分でしたが、オランダで開催された試合に参加した結果、優勝した選手から1分ほどの差をつけられてボロ負けするのです。ボート競技は2000mを6〜8分程度でレースをするので、そこで1分差をつけられるというのは、本当に圧倒的大敗で勝てる要素が1mmも見つからないのです。ここで引退を決意しました。
あともう1つ7年目に感動した出来事があります。昨年日本に訪問されたデンマークの選手は夫婦でオリンピックに出場され、旦那さんは2012年ロンドンオリンピックで金メダルをとった素晴らしい選手なのですが、無理やり仲良くなった自分はスウェーデンで国際学会発表があったときに連絡をとって家に泊めてもらったのです。家には金メダルも飾ってあって自分の記憶に残る最高の思い出となりました。
そして、この選手の話を聞くとボートの選手をしながら大学の医学部に通って医者を目指していると言うのです。オリンピックの前年まではトレーニングと勉強を並行して行い、オリンピックの年は休学してトレーニングに専念し、金メダルをとったとのことです。凄すぎます。
自分が大学院に通いながらじゃなかなかトレーニングできないなーとか思っていたのが恥ずかしくなります。でも、こんな世界のトップの人と出会うきっかけを与えてくれたボート競技に感謝です。
選手引退後の姿
こうして選手を引退したわけですが、今でもボート競技には関わり続けており理学療法士として母校のトレーナー活動を行っています。また日本代表のサポートもさせてもらえるようにもなってきました。
また理学療法士は身体の障害に対するリハビリの方法などを学ぶのですが、そこから自然に障害者のスポーツにも興味を持ち今ではパラリンピックを目指す選手にも関わらせてもらっています。
ボート競技以外にもスポーツ関連として競走馬のコンディショニングの仕事に発展したり、障害者スポーツに関わったのがきっかけで障害者の就労に関する問題に直面し事業として支援を行うために株式会社も設立しました。
このように選手として多くの経験をさせてもらって、今では仕事としてもボート競技に関わらせてもらっています。本当に素晴らしいスポーツだと思います。以上、つらつらと思い出を書いてみました。
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