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エセ「気功術」にだまされない

気功の師範が弟子を相手に手をかざし、「気」を送ると弟子が吹っ飛ぶ

こんな芸当が報じられたことがありましたね。

この「気」って、何なんでしょうか?


私はこういった不思議現象(に限らず今のところ未解明の自然現象全て)を考える際には、まず既存の知識でどれだけその真相に迫れるか、というところに最大限注力することが重要だと考えます。

そしてこの姿勢をキャッチフレーズ的に、「疑わしきは罰す」と呼んでいます。

要するに、なぜそのようなことが起こるのか、メカニズム不明の現象を目の前にしたとき、その解明のために、いたずらに新たな概念とか現代科学の枠を飛び越えたメカニズムや実体に飛びつくのではなく、まず今手にしている科学の知識を動員して解決を試みる、ということ。

例えば幽霊やUFO「らしきもの」を見た時、自身のその目撃体験のみでそういったものの存在を信じ込むのではなく、自然現象や他のモノの見間違い、もしくは心理的作用など、「幽霊やUFOが存在しない」方向でまずはその原因を考えてみるのです。

そしてもしそれで説明がつくのだとしたら、その件はもうそこでおしまい。
「無し」として片づける(=罰す)。

他の要因で片が付くということは、その体験が幽霊やUFOの存在に直には結びつかないということ。

である以上、そこからさらに幽霊やUFOの存在に結びつけようとする態度は、科学的見地から言えば誤りです
(興味をもってエビデンスを探究するのは個人の勝手ですが)。


気功の例で言うと、気を送る相手が気心の知れた弟子であるという所がまず怪しい。

事前に打ち合わせしている線がどこまでもつきまとう。

一般の人相手では「危ないから」とか「邪念がじゃまをするから」とか何とか適当に理由つけちゃて。


一般の人を対象に気を送る時は、まず弟子にやらせるパターン。

成功すればもちろんOKだが、成功しなかったとしても「まだ修行が足りない」とエクスキューズ可能(笑)。

そして何人かの一般人を対象に弟子に気功術をやらせてみて、「当たりの人」(=かかりやすい人)をピックアップ。

ここでおもむろに師匠登場。

別のポーズでさらに気功の技を見せる。

この人たちは「かかりやすい」人たちだから(試され済み)、まあ成功するわけですな。

ここでピックアップされる人というのは大方「自己暗示にかかりやすい」か「場の雰囲気にのまれやすい」人なのでしょうね(サクラの可能性も勿論アリ)。

別のシーンでは気功師が樹木に気を送ると木の葉が落ちる、なんてのも。

この場合はさっきの例とは異なり、相手が植物だから自己暗示とかの心理的作用ではないでしょう。

しかし考えてみると、落葉樹に葉っぱが1万枚あるとして、それが2か月で落葉するとすれば1時間当たり平均7枚くらい落ちることに。

手をかざしてしばらく見ていれば、見ているそばからはらはらと葉っぱが落ちてくるのは当たり前な訳で。

今時の手品師なら、これよりはるかに驚くような芸当を見せてくれます。

しかも、タネも仕掛けもあるエンターテイメントとして見せてくれるので、こちらはその流れで素直に楽しめる。

問題はそうではない場合。

気功師が現代科学で説明できない現象を超自然的なパワーで起こしてますよと押してくる場合は、科学者サイドからすれば実際何が起こっているのか、とメスを入れるわけですね。

で、本当に現代科学では捉えきれない現象が存在すれば当然それは科学研究の対象となるわけですが、「疑わしきは罰す」論法で検証していくとほとんど研究対象に達するレベルのものには残らない。

特にテレビなどでショー的に行われる術に関してはエンタメ以上の何ものでもない。

見ている方もそれだけであまりのめり込まない方が得策なのでは?


よくある誤解として、「科学者は最初から否定ありきなのでは」というもの。

そうではなく、ただそれを新奇な現象であると認めるためにかけられるフィルターの目は、当の術者やビリーバーに好都合なほど粗くはないですよ、ということ。

そして、そんな程度の気功師がまかりまちがって癌の治療など言い出した日には‥

「君子危うきに近寄らず」ですよ。

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○ホームページ
「『不思議』を科学する<見えない世界の物理学>」

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