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高校物理教育の「系統性」

物理学会の会員に毎月配られる学会誌。
 
2024年2月号の巻頭言は、副会長・橋本省二の「思いは伝わっているか」。
 
その内容は、日本における高校生の物理離れ(「物理基礎」履修率の低下)を憂えるもの。
 
2023年9月の年次総会で東京学芸大・新田英雄が発表した数字として、高校科目「物理基礎」を好きと答えた高校生は10%で、体育芸術系まで含めた全教科で最低。
 
一方「そう思わない」、つまり好きではないと答えた割合は50%を越え、ぶっちぎりの1位。
 
「どちらかというと(嫌い)」まで含めると68%。
 
女子に限ると80%。
 
これらの数字を挙げた上で橋本は、大学教員が高校に出向いて講演するなど、物理の楽しさを伝えようと努力してもなかなか思いは届かない、と恨み節を吐露した上で、「物理好きの若者を増やすにはどうすればいいでしょうか」と問いかけます。


系統的な学びは高校では不要?

彼の出した答えは、高校の段階で「物理学の系統的な学びを捨てる」。
 
「現代は科学の時代です。そのことを感じられる高校物理にできないものでしょうか。」としつつ、ビッグバン、超電導、レーザー、量子コンピュータなど現代的な話題を取り上げ、その理解に必要な法則のさわりだけを、できるだけ実験を交えて伝える、と。
 
最後に「物理は楽しい。その想いを若い人たちと共有したい。(中略)日本の物理学の将来のために。」と結びます。

あなたはどう思いますか?
 
私は三割賛成、七割反対です。
 
賛成の理由は橋本の主張と同じ、高校生の物理学への興味喚起は重要なことだから。
 
反対なのは、今話題となっている興味を引きそうなテーマとそれにリンクした物理法則、という各論をつらつらと並べるだけでは、安物のポピュリズムに陥る可能性があるから(彼が「これ以上ないくらい乱暴なことを言ってみたい」とするので、私も敢えて乱暴に言います)。
 
興味引きそうな現代的なテーマを語る、は良いとしてその動機は?
 
そこが大事だと思うのです。
 
「相手の興味を引くため」だけだとしたら、ダメな大人を体現しちゃっているかも知れません。
 
彼の記事でも例に挙げられている、今まで大学関係者が高校で企画して効果の上がらなかったとするアウトリーチの、その轍を踏んでいると言えなくもありません。
 
もし彼の言うとおりにしたとすると、高校で物理を選択しなかった人が次にきちんと物理を学ぶチャンスがあるのは、自分で興味があって関連本を読み漁る場合を除き習うチャンスとしては、それは大学での授業、となります。
 
大学教養で物理学を選択する率、やはり相当低い。

もちろん大学に進学しない人も多い。
 
その現状を踏まえると、では高校物理での「系統的な学び」とは、そんなに軽んじても良いものなのか、改めて考えてみたいのです。

高校の科学教育の意義

私はこの「系統的な学び」を、排斥するのではなくむしろ質的転換をして持続すべき、と考えています。
 
自然科学部門の一番ベーシックな部分である物理学を高校で学ぶ意義って、科学のトピックに興味を持ってもらうくらいのもので良いのか?
 
もし高校卒業後に学ぶ機会が少ないのであれば、高校のうちにやっておきたいことは興味を持ってもらうことに加え(これが大事でないとは言わない)、科学的な思考のあり様とその重要性といったところかと思うのですが、どうでしょう?
 
要は、論理思考を養うのが数学の役割であるのなら、それを応用する、つまりいかに目の前の問題に適用するかをシミュレーション(科学としては基礎)するのが物理学なのではないか、と思うのです。

例えば坂道に置かれた物体に働く重力と摩擦力の兼ね合いで、物体はどのくらいの加速度で動きますか、とか。

既知の法則を組み合わせて、目の前の課題に当てはめる(ここまでは物理学)。

あとは未知変数についてチャカチャカ解いていくだけ、数学ですね。

こういう訓練、高校レベルでもあって良いでしょう。
 
ではその先の、科学的な思考のあり様とは?
 
端的に言えばそれは帰納的推論と演繹的推論の二刀流。
 
新奇な現象があったとして、既存の理論との接続の上でそれを理解するためにまず科学者はそれをうまく説明できそうな仮説を提示する(帰納的推論)。
 
仮説が提示されれば次に行われるのはその仮説の検証(演繹的推論)。
 
当該仮説が正しいとして、その結果導かれる帰結がきちんと現象の中に見られるか、などを見ます。
 
その結果通常は、多くの仮説が正しくないとして棄却されます。
 
検証の結果正しかろうとみなされたごく一部の仮説は、十分検証されたのちは定説の地位を得、将来の教科書に載ったりもするでしょう。
 
そして重要なのはここから。
 
定説になったからと言って(教科書に載ったからと言って)、それがどんな条件でも成立する、全幅の信頼を置ける理論である訳ではない、ということを明確にする必要があります。
 
こんなことは現場の研究者なら百も承知でしょうが。
 
2018年ノーベル医学生理学賞を受賞された本庶佑が言う「教科書に書いてあることを信じない」も、そういう趣旨での発言でしょう。
 
どんな理論にも前提があり条件があるのです。
 
だから、一旦正しさの確かめられた理論も、その正しさとは一体どの程度まで正しいと言えるのか、理論の「適用範囲」を見定める実験や観測などを通じた研究が続くのです。
 
そして適用範囲を越える現象が見つかると、それを説明可能な理論を(接続性に留意しつつ)仮説として誰かが提示し、それに対する検証が続く。
 
このように様々な段階の推論・検証のループが続いて、科学理論の、今私たちが手にしている今日の姿があるのです。

科学思考に裏打ちされた研究の真の姿は見えにくい

超電導や量子コンピュータは大変興味深いテーマであり、そのメカニズムを説明する、平易な言葉で綴られた一般向けの記事も簡単に手に入ります。
 
それらは言うなれば、ショーウインドーに飾られた売り出し中の完成品。
 
購買意欲を掻き立てるように興味を引く、そのためのディスプレーですね。
 
本当はそこまで至るのにデザインや縫製の過程で多くの人の血反吐を吐くような努力があったはず。
 
でもショーウインドーだけ見ていると、そこで得られる情報というのはそういう背景部分・汚い部分がごっそりそぎ落とされたものになります。
 
服を買うだけならそれでも良いでしょう。
 
いや買わなくとも、ウインドーショッピングを楽しむ向きもあり。
 
それについて私は何も申しません(店は買って欲しいだろうけどさ)。
 
しかしこと科学トピックについて言うと、みながみな完成品だけ見てそこに至る過程がブラックボックスのままで良いのか、非常に疑問です。
 
「科学は正解を明示するもの」、もっと言えば「世の中の問題は正解か不正解かの二択」という誤った認識を暗に植え付けてしまうのでは、と危惧します。
 
正解といえども条件付き、そしてその近似的正解に至る過程は白か黒かの議論ではなく、膨大なグレー領域の中でどれだけ白っぽいか黒っぽいのかのせめぎ合いの議論をしている、という科学研究の実態を、もっと知らしめるべきではないでしょうか。
 
白の度合い、黒の度合いを見極める困難な思考過程こそが科学思考の骨頂であり、美しい科学像に接するだけではそれは伝わりません。

生きていると出くわす問題、たいがい複雑

そしてこの反二者択一思考は、日常生活でも役に立ちます。
 
2011年の東日本大震災で起こった福島第一原発事故。
 
当時ネット界隈を中心に巻き起こった「科学の発展がこのような事故を招いた」といった論調の科学バッシングは、社会にとっても科学にとっても誠に不幸な事象というほかはありません。
 
安全神話によって作られた「どんな自然災害にも耐えられる原発」というイメージが独り歩きした結果なのです。
 
本当は絶対安全なのではなく、例えば「現状の設備では過去300年に起きた津波に堪えられる」という議論に対して、では1000年以上前の貞観地震による巨大津波(ボーリング調査で2005年に既に明らかになっている)には備えなくて良いのか、という議論が成り立ちます。
 
単純に「備えたほうが良いではないか」という結論になるかというと、そうではありません。
 
当然、その分膨大なコストがかかるからです。
 
「どんな大きな津波にも耐えられる」対策ができないのであれば、「どの位の津波に備えたらよしとするのか」と、ムリにでもどこかに線を引く定量的な議論が必要になります。
 
これには科学者のみならず、経済学者や政治家、地元に住まう人々などの参画が必要になるでしょう。
 
そして最終的には税金が使われる話、となれば国民的な議論もまた必要となります。
 
こういう困難な道を避けたところに神話が生まれます。

人生を分ける、単純化しすぎない思考法

そして、論理思考を駆使し白黒はっきりしない困難な問題に立ち向かわなければならない現実に対し、わかりやすい言葉でいつでも正解を明示する誤った科学像は、疑似科学の温床ともなり得ます。
 
「波動」、「次元」、「エネルギー」などの科学用語をちりばめて科学っぽさを演出し科学の権威を利用するが内容は科学とは無縁の疑似科学。
 
それらのほとんどは最終的には高額商材の販売に結びつきます。

私の実体験ですが、時は2018年。

渋谷のある会場に集まった8人が参加したのは「スピリチュアル科学セミナー」。

内容は全くの、どこにでもある疑似科学。

ただホワイトボードを駆使し数式を多用しているのが、彼らなりの差別化か。

その数式なるもののデタラメぶりは私の目には明らかなのだが。

10次元の話をしているのに、講談社ブルーバックスから引っ張ってきただけのその数式は当然4次元だし、数式の中の「空間部分が神社で時間部分がお寺」とか、もうなんでもありかよ!

でもこんなデタラメでも、数式の魔力が勝ってしまうのか私以外の7名全員が、その後のたった3時間で40万円の高額講座に流れて行ってしまうのでした。

内容は推して知るべし、デタラメの一言でしょう。

40万円と言えば私が学生時代の国立大学の年間授業料。

これ、釣り合い取れてます?

最近も私は、日本メディカルホメオパシー学会理事長・帯津良一を重用し、講演会や連載記事などで氏の私見を野放しにする一般社団法人・学士会に対する質問状を送付しました。
 
理論物理学者・保江邦夫は一般向け講演で、「5G電波がコロナウイルスを活性化する」とのデマ情報を流しています。
 
疑似科学は日常生活のそこここにあり、市民の生活、財布と命を狙っており、かつ専門家すらそれに加担している、悲しい現実があるのです。

90年代に世間を騒がせたオウム真理教には、多くの自然科学系大学・大学院出身者が幹部として在籍し、重大事件に関与していたのはよく知られた事実です。
 
ひょっとしたら自然科学の知識の多寡が必ずしも科学思考力に直結しないのかもしれません。
 
だとすればなおのこと、自然科学を専門としない人、なかんずく高校レベルの自然科学初学者が、科学思考の全体像やそのエッセンスを学ぶ意義は小さくなかろうと思うのです。

「準」義務教育のうちにやれること

今の時代科学に興味のある人には、様々な科学雑誌があります。
 
パリティは残念ながら休刊となってしまいましたが、「ニュートン」や「日経サイエンス」などは割と読みやすい。
 
ちょっとレベルが高くて良ければ数理科学、そしてもちろん日本物理学会誌も選択肢に入るでしょう。
 
ネットで手早く情報を集めることもできますが、そこは玉石混交。
 
疑似科学の温床でもあるので注意は必要です。
 
しかし科学思考力の重要性を知りそれを養うのは、「自分で情報を集めろ」よりまずそのとっかかりだけでも「教え授ける」社会からの動作が必要なのではないでしょうか。
 
もし高校の物理教育を変えるのであれば、ぜひこの方向でも検討してはどうかと思います。

#探究学習がすき

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(つむぎ書房、2023年)
心の源は脳にあらずとする心身二元論と唯物論を統合する新説、「PF理論」のやさしい解説。テレパシーやミクロ念力などの超心理現象も物理学の範疇に。実証性を重視し、科学思考とは何か、その重要性をトコトン追求しつつ超心理現象に挑む、未だかつてない試み。「波動を整えれば病気は治る。」こんな「量子力学」に納得しちゃう人、この本を読んだ方が良いかも!?あなたの時間・お金・命を奪うエセ科学の魔の手から自分を救うクリティカルシンキング七ヶ条。本書により科学力も鍛えられちゃう。(概要より)

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