自分の小ささを感じる楽しみ
なぜか、登山好きが私の友人の中にはたくさんいます。
たまたまでしょう。
なぜ「たまたま」と言えるか?
私が登山嫌いだから。
登山好きなら登山仲間ができて、そういう友人が増えるのはある意味当たり前かもしれませんが、私の場合そうではない。
おそらく世の中ちょっとした登山ブームでも来ているのではないでしょうか?
そう考えると、私のような登山嫌いに多くの登山好きの知り合いがいても不思議ではなく。
登山嫌いでも、人の登山記録みたいのは好きです。
その登山好き友人たちがSNSにアップする記事なんか見るの、好きですね。
必ず山の風景写真があって、どれもこれも美しい。
下から見上げ拝むる山もまたよし
なぜ私が登山嫌いかと言えば、単純に山を登るのが「苦しい」から。
中学時代の遠足で登山させられて、景色を楽しむ余裕もなくただひたすら苦しかった。
登山の楽しみを伝えられない、いやそれどころかトラウマ化し登山嫌いを生むだけ、ただ忙しいだけの「イベント登山」。
こういうのがある学校教育、なんか間違ってません?
学校の行事なので不参加の選択肢はないところも、嫌いにさせる要因でしょう。
ちょっと脱線しましたが、私は山の景色そのものは大好き。
「どこでもドア」で高山に行けるのなら、そうしたいところです(大変な思いをするからこそ景色が素晴らしいのだ、とお𠮟りを受けそうですが)。
バイクツーリングは好きで、その立場から私にとって山とは、下からその雄姿を拝む対象です。
霧ヶ峰、八ヶ岳、南アルプス、北アルプス、谷川連峰、飯豊連峰、奥羽山脈の山々‥
毎年眺めても、全然飽きませんよ。
哲学者が語る登山観
ところで登山好きの方々が山を登る所以とは?
「そこに山があるから」を掘り下げて見えてきた、景色を楽しむ心の奥底。
哲学者・アラン・ド・ボトンによれば、「雄大な景観を求めてひとは旅をする。それを目の前にして自分の小ささを実感する。じつは、ここにひとつの逆説がある」と。
例えば他人から面と向かってお前は小さい奴だ、と言われれば不快だし腹も立つでしょう。
しかし大自然を前にして、心の奥底から湧き上がる「自分の小ささ」感はどうでしょう?
逆に、露わにされる自分が小さすぎて(笑)、かえって満ち足りた感覚に自然と笑顔がもれてしまう、そんな人多いのでは?
私はインストラクタとしてスカイダイビングの世界に今まで6000人くらいをエスコートしてきましたが、同様の感想を大変多く聞いてきました。
「今の悩みなんかどうでもいい」、と。
山を見たからって、飛行機から飛び降りたからって、抱えている悩みが雲散霧消するわけではないのですが、雄大な自然を体験することでそのようなものに捉われすぎて過ごしてきた日々が良い意味でバカバカしくなった、というところでしょうか。
慶応大学・前野隆司教授の言う所の、「悟り」とか「無の境地」も、このようなものなのかも知れません(違うかな?(笑))。
大自然の懐へ、自分なりのやり方で「自分の小ささ探しの旅」、してみませんか?
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