見出し画像

例え参考書を100冊やったところで意味はありません

第一志望に合格した人はよく、「一冊の参考書をずっとやっていました」とおっしゃる方が多いです。


一方で、「結果が出なければ次の参考書」という意識の方は親子ともにとても多く、大抵は学校の教材に加えて塾に入り、塾のカリキュラムもこなそうとする場合が多いようです。


私も「一冊を完璧に」という考えを持っています。今回は、成績が上がる人と上がらない人の参考書の取り組み方の違いについてお伝えします。


成績が上がらない人の学習は「浅い」に尽きる

日本の学校教育のどこでそうなったのかは特定できませんが、どうしても「たくさん勉強しよう」と考える方が多くいらっしゃるようです。


当然、勉強時間は少ないよりは多いに越したことはないかと思います。

しかし、「勉強の質はどうでもいい」ということにはなりません。


実際に、本人的には勉強を頑張っているにも関わらず、結果が出ない中高生は後を絶ちません。


現役時代の私がまさにそのタイプだったため、気持ちは痛いほどわかるのですが、勉強に必死は人ほど、「とにかくたくさん」という思考で、どんどん新しい参考書に取り組みます。結果が出なかった時に、「まだ勉強量が足りない」と考え、次の参考書を探します。

私はこの「まだ勉強量が足りない」という反省の仕方に問題があると考えています。



私からするとこの考えには、「勉強すれば成績が上がる」という甘く見積もった前提があるように思います。

実際、頑張り方を考えずに、ただガムシャラに頑張るだけで結果が出せる人もいます。それは勉強に限らず、スポーツ、社会人になれば仕事の種類によっても異なります。


頑張り方を考えずに結果が出たのであれば、それはそれでいいと思います。一方で、頑張っているのに思うような結果がついてこない人は、「自分の頑張り方が間違っているのではないか」という謙虚な姿勢が必須であると考えています。


「勉強はやればできる」という言葉には、軽く考えられた多くの前提が含まれていると思っています。


「深い」勉強にたどり着くための「基準」の高さ

私は、勉強の質は結局のところ「わかった」・「勉強した」の基準の問題だと思っています。

参考書に書いてあることが理解できればそれで「勉強した」と考えるのか、10回読んだからそれで「勉強した」と考えるのか、5回書いたからそれで「勉強した」と考えるのか、課題を提出した時に親や先生から怒られないから、それで「勉強した」と考えるのか、


つまり、私のブログでは何度も出てきている「学習観:何をもって学習したと考えるのか」の問題です。


「勉強した」の基準が高ければ成績は上がり、いくら勉強しようとも、基準が一定より低ければ成績は上がりません。


特に気にすることなく、勉強するだけで成績が上がる人は、無意識ではありますがその基準が高かったり、その高い基準を当然のことと考えていたりすることが多いです。少なくとも「周囲の大人の目」がその基準に入ってくることはありません。(「期待に応えたい」という気持ちがあることはあります)


努力が結果に結びつかないのは辛いことです。もちろん経験としては大事かもしれませんが、最終的には努力が結果に結びつく経験に変えていきたいものです。


それをサポートすることこそがパラリアの役割です。

パラリアでは、「勉強の基準」を非常に重要視しています。アドバイスもこの「勉強の基準」が中心になっており、ただわからないことを教えることはアドバイスとは見なしていません。



勉強の基準が成績にあらわれるようになって初めて、勉強量の話が出てきます。

基準さえ高まれば、あとは勉強するだけです。頑張れば頑張るだけ結果が付いてくる感覚は、非常に楽しく嬉しく、自分に自信を持たせてくれる経験です。


「あとは頑張るだけ」の状態にすることが、パラリアのゴールです。

●まとめ:頑張っても成績が上がらない中高生への対応
「勉強した」の基準を常に高め続ける。基準を洗練させないアドバイスは、アドバイスではない。







いただいたサポートは、他のnoteクリエイターの方の応援に使わせていただきます。 コメントにてご感想等いただけたら大変嬉しいです。 ご質問等がもしございましたら、執筆者名指しでいただければ、記事内で回答させていただきます。