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「なんかいい、」について

「なんかいいなこれ。」

「え?いや、なんかよくね?」

「なんかいいじゃん。」

誰しもが使ったことのある文字の並びであろう。
根拠のない言葉。
私は不思議とこの5文字に絶対的な信頼を置いている。

「なんか違う、」はいつかどこかで大きな違和感に化けて「違う」に変わり果てることが多い反面、「なんかいい、」はずっと「なんかいい」気がしているのだ。これも根拠はない。なんかいい、のである。

こうした「うまく言語化できないもの」に私は果てしない魅力を感じている。そのために日々、語彙力を身につけていると言っても過言ではないかもしれない。

私は、その時の感情や主張したいことを正確に言語化できる人間が好きだ。数多の語彙の中で「それ」を選択したということ自体に価値が見出されるような気がするのだ。

 「語彙」には、時に「言い回し」も含んでいる。

例えば君に恋人がいて、その彼女(もしくは彼氏)が君の部屋に遊びにきたとしよう。部屋が散らかっている様子を見て彼女は掃除を始めようとする。その時、

①「掃除してあげるね」

②「掃除してもいい?」

③「掃除しよう」

彼女の一言が上3つに限られていたならば、君はどの一言が一番しっくりくるだろうか。

どの選択肢も彼女が掃除することには変わりはないが、①にはどこか「自己中心的な意識」を感じはしないだろうか。「君がしないから、私が代わりにしておいてあげる」といった恩着せがましさや心の内の上下関係を感じるのは私が捻くれ者だからだろうか。

②と③は「許可」と「勧誘」程度の違いであるから、掃除自体を「彼女が全部やるのか」もしくは「一緒にやるのか」、のちの「掃除」という行為を「誰と行うか」に焦点が当てられている。

 −このように言葉には、良くも悪くも会話の中に「相手への気持ち」を含ませて伝達することが可能なのである。−

まあ、そうまとめてしまえば一見素敵だが、本来細かい部分まで神経を尖らせる必要はない。むしろ気にしない方がいい。
君も私も含め、人間は所詮くだらない。些細なことで言い争い、時には力でねじ伏せる。反面、争いを嫌う者はしきりに周りの視線を気にし、しまいには自分を追い詰め、人間を嫌いになっていく一途だ。

 自分の口から発された言葉は、一つの「球」であるということを理解しておいてほしい。「言葉は空気の振動である」などといった事実は一旦脳の片隅に仕舞おう。

球を強く投げたら相手は傷を負う。優しすぎると届かない。
「適度な強さ」でこそ「対等な関係」は築けるものだ。

所詮言葉、されど言葉。壮大だが、失われる命もあれば救われる命もあるのも事実。
言葉は、培う価値がある。
だからこそ尚更、その言葉たちでは表現しきれない曖昧ななにかが「美」として際立ち、「なんかいい、」の感動につながるのではないだろうか。

【追記】

 最近、友人が本格的に夢に向かって歩み始めたという報せを聞いた。

 君は「決断すること」は好きだろうか。
 決断とは、膨大な不安とプレッシャーを期待という大きな風船で薄く包んでいる状態のことである。頼りないものだから、状況が変わるたびに一喜一憂して時には割れてしまうこともある。このような「不安定な場所に自分の意思で真っ直ぐ立とうとする」のが「決断」であり、わざわざする必要のない挑戦をしにいくその姿が私は単純に「なんかいい、」と思ったのだ。

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