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錯覚

随分とお久しぶりの投稿となりました
また少しお付き合いください

『悟ること』や『悟り』に対する私たちのイメージは
どんなものでしょうか?

多くの人、もちろん昔の私も抱いていたのですが
悟った人や悟りって穏やかで自我に左右されることなく
真我の状態でいられる

転じてなんでも思い通りに生きることができる
とか覚者と呼ばれる人のように何を聞いても答えてくれる
なんてイメージする方も多いのではないでしょうか

果たして実際はいかがなものでしょうか

悟りの定義にもよりますが
自我の存在と真我の存在がまずわたしたちに
共存しているということを認識することが基本だと思うのですが

わたしの体験からは気が付くこと
というものがまず第一ステップとなります
肉体のわたしという自我と
魂のわたしという真我が存在していて
肉体のわたしのなかに魂のわたしが存在している

例えていうならば
肉体の宿主でもあるのが魂のわたし
という感じでしょうか

心穏やかに平安に過ごすこと
これももちろん悟りびとであると思うのですが
世の中見渡してみると
覚者のようなひとだけではないことに気が付きます

職人さんで毎日おなじことを繰り返して生きている
という人のなかにも悟りびとは沢山いますし

黙々と日々を生きているような人々もまた
悟りびととも言えるのです

そしてまた今生において
体験したいことを選んできていますから
いろいろなことがその身に起ると思うのですが
それらすべて起こることに対して気づきが都度起こり
消化しているような人々のなかにも悟りびとは存在しています

この世というものは
体験の連続です
感情の喜怒哀楽や起伏ももちろん体験です
どのような状況下であろうとも
真我の望む世界に生きているということが
ひとつの悟りの世界のような気がいたします

あなたの真我はお金を求めているのかもしれません
その求めた先に何があなたに残るのか?
体験するために湧き上がることなのかもしれません

はたまたあなたの真我は何も持たず
所有を捨て去りウルトラミニマムな生活を
求めているかもしれません

あまりに詰め込んだ情報によって
わたしたちの判断はステレオタイプな
イメージによって創られています

仏教の世界では悟るとは
迷いの世界を超えて真理を体得すること
と言われています
そうなんだよな~なんて思う私がいます

一方で迷いの世界のなかで
右往左往しながら漂うことも
そんな状態であったとしても
この仕組みを理解しているならば
悟っているとも言えるのかなと思います

いいや、そういう状態は悟りからは
対局の世界に生きているのでは?

なんて感じたりするのかもしれませんが
それもある種の錯覚であるのです

わたしたちのほとんどすべての人は
外部からの情報によって成り立っていたりします
なので真我であるあなた自身からの情報がおろそかに
なってしまったりしているわけです

人の数だけ真実は存在します
ところが真理はひとつ
揺るがない真理がひとつ
最初に書いたように

自我と真我

このふたつの要素でわたしたちは成り立っている
自我と真我の存在というなかに
森羅万象の宇宙がすべて凝縮されています

甚だ乱暴な理屈ですが
自我と真我のシステムを理解して
真我の求めることを受け入れていくそこに
悟りを体得しているあなたが存在しています

不定期ですがまた次回
お会いいたしましょう



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