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物申す系5歳児

母とデパートなどへ行って店員のおばさんと出会った時、「ワタシ」と呼ばれることに、幼い私は強烈な違和感を感じていた。
お店の人は顔面全部をほころばせて「あらぁ、ワタシ、今日はママとおでかけなの?いいわねぇ」「ワタシはどんなお洋服がいいのかなあ?」などと語りかけて来る。
お店の人は私の名前を知らない。だから便宜的に私のことを「ワタシ」と呼んでいる。そんなことは子どもの私でも理解できる。
しかし違和感は消えない。
そもそも「ワタシ」は本来一人称なのであって、この場合一般的には「ワタシ」といったら目の前の喜色満面のおばさん自身のことである。

「私は私だけど、『ワタシ』はあなた!」

私は大声でそう主張したかったが、そんな頓智みたいなことを言ってしまったらおばさんの顔は凍り付くだろう。お洋服を買ってもらうどころではなくなる。

どうやら、この不可解な「ワタシ」現象は私と見知らぬ大人が対峙した時に頻発するらしかった。
一人でおつかいへ行く。母に言われた通りのものをカゴに入れ、意気揚々とレジへ。レジの人、やはり喜色満面で「まぁ、えらいわねぇ。ワタシ、一人でおつかいに来たのね」とくる。私の片眉、ピクっとあがる。
「ワタシ」という言葉は私が私のことを思って口にするから、本物として機能するのだ。よその人の口から、そんな白々しい偽物の「ワタシ」を勝手に生み出さないでほしい。
せっかくおつかいを達成できたのに、お母さんに褒められても、私のおでこにはレジの人が貼り付けた「ワタシ」のお札がヒ~ラヒラ。

ちなみに弟は「ボク」と呼ばれていた。しかし、弟が自分のことを僕と言うのを見たことがない。では、もはや「ボク」は誰のことでもない。
私の片眉がまたピクピクしていることも知らず、彼は大人の前でヘラヘラ笑っている。弟には、もっと自分を大切にしてほしかった。

セーラームーンごっこをしつつ思索にふける私と、虚無状態の弟。


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