雑感:美少女産業の明日

東西の分別なく美少女を見る世相になった。今日、大資本や地方自治体は当然のこと、三権の広報まで美少女産業が出荷されつつある。かかる潮流に考えを致すとき、われわれは、今後真新しいことを素人に分からせるのには、美少女を遣うのが一番良いかもしれない。イエスや仏陀は譬喩を好んだ。あまり優れない精神の所有者にとって、その方法が一番分からせるために早道なのを、しかと心得てあせられる。最早彼らに比肩しうるほど偉大な教師は居ないけれども、代わりに美少女はどうかしら。公教育の教科書に美少女が進出しつつある現在、私は請け合っても良いが、遠からず抽象事はなんでも、ゆくゆく数学や道徳を美少女で教える日が到来する。

美少女とは要するに無害性である。きゃりーぱみゅぱみゅが、「かわいいとは相手を決して傷つけないという表明」というようなことを言っていたが、美少女はその究極系にちかい。美少女の親類を挙げれば「猫」と「赤ちゃん」であって、以上の二者は、本質において美少女の先祖だ。美少女の顔立ちは人間的というよりもむしろ猫のほうが近いし、こと絵を描くに、美少女の頭蓋骨図を展開すると、実年齢の10歳以上は幼くすべきだ。

そしてすでに害虫駆逐の必要がない先進地域ほど猫が傾城し、また実に人類史と同等の長さ赤ちゃんが保護を獲得してきた事実は、これら遺伝子を引いた美少女が、当たり前に世界を席巻すべき必然性を示唆する。

ところで美少女になりそこねた非完全形、むざんな産物こそ「ゆるキャラ」に相違なく、ごく一握りの成功例をのぞき、あの不自然な二頭身は、ほぼことごとく私たちの感情を逆なですることに成功した。ゆるさとは必ずしも無害に関係しない。むしろゆるさ——一歩間違えればウザったさ——が失敗したとき、良かれと思われたコンセプトが却って積極攻撃に転身し、一種の無差別的挑発に堕しかねない。私はふなっしーがきらいだ。「みちのえき」に発見するたび、彼を丹念にすろおろし、てきとうなペスト患者などに提供できたら、さぞ楽しいだろうなとおもう。

美少年——ではだめなのだ。いっそ宦官がよい。性別は対象をある常識内に押し止める。また美しくないのもいけない。かの格言が示すように、

Il ne sert à rien d'être jeune sans être belle, ni d'être belle sans être jeune.
美しくないのに若くあろうとしても無駄である。反対に、若くないのに美しくあろうというのもまた然りである。

——ラ・ロシュフコー

なんとならば全て無害性を損ないかねないからであり、第一老人は無条件に攻撃的な教訓を帯び始める(あなたもいずれこうなるのだ、という)。野郎も有史上かくなるべく運命づけられ、いまさら今日明日の四半世紀に改善できるような性格ではないから、もう仕方がない。そうしたら、けっきょく、消去法にしたがって美少女を選択するより道がない。

然し「かわいい」と「かしこい」または「つよい」は同居できるのか? 
できるとおもう。私たち人間は、いずれ皆「かわいく」ならなければならない。視覚上のかわいいは、先天や後天に獲得した符牒配列の問題であり、ある特定の並び方を、かわいいに定義づけるので、それはかわいくなる。だがまことのかわいいは、一種の「きよい」とさほど変わりない。かわいいは無害性である。「あなたに危害を加えない」は、ただちに「かしこさ」であり、「つよさ」だ。だから、そういう意味では、イエスも仏陀も「かわいかった」のであり、最終的に美少女産業とはそういうイデアの、不完全な分有のようなもので、人間は古今、本能的に「かわいさ」を欲求している。というこじつけじみた文章を、ネット広告の美少女に食傷してきた私が書いてみました。真に受けるなよ。


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