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文章はコミュニケーションでなければならないのか?

読まれない文章はコミュニケーションとして破綻している。

これはわたしが最近拝読したnoteに書かれていた言葉。
文章はコミュニケーションだから、もしその文章が読まれないのであれば、その文章はコミュニケーションとして破綻している。
何も考えず書いた文章が読まれないのは当然だ。読まれる努力をしていないから。読者に読みたいと思わせる内容で、読んだことで何かが得られないといけない。「読者」という存在を意識して書かなければ。だって文章はコミュニケーションなのだから。

その記事の前半の要約はそんな感じ。
すごく的を射た話をしているので勉強になるなぁと思っていたのだが、「文章はコミュニケーションだから、読まれない文章はコミュニケーションとして破綻している」という文言を見た瞬間に続きが読めなくなった。

本来なら元の記事を紹介するべきなのだろうけど、全文読めていない状態で貼るのは失礼だろうし、私がしたい話とは厳密には関係がないので割愛させていただく。
というのも、私はその記事の内容に反論したいのではなく、単純に「文章がコミュニケーションであるという前提にびっくりした」という話がしたいからだ。

文章はコミュニケーションなのか。
コミュニケーションでなければならないのか。

小説家を目指し、日々物語を紡いでいる私は、「NO」だと思っている。


ライターの前提、小説家の前提

前提の共有として、上記の発言をされた方はご自身のnoteが「読まれたい」と思っていた。noteを発信ツールとして使うライターさんだ。肩書きは編集者さんで、ライター向けの研修などを行っている、「読まれるためのプロ」である。

ライターという職業は読まれる文章を前提としている。読まれる文章を執筆、代筆することがライターの仕事である。ライターさんである限り、文章は読まれなければならないのだ。

その意味では小説家、つまり書籍や電子書籍の売上で食べている商業作家も同じだろう。
本が売れないとお金が入らない。買ってもらうには「読みたい」と思われるものを書かなければならない。
それは必ずしも「売れ筋を狙って書け」という意味ではなく、「読者の意欲を刺激するものでなければならない」という意味だ。流行に乗った作品でももちろんいいし、独自性が高くてなんだこれは?と興味をそそってもいい。

余談だが、webでのライターさんには「SEO対策」なんてものが求められることはご存知か。要は検索エンジンに引っ掛かるワードや工夫を散りばめることだ。
webには膨大な量のページがあるから、そもそも表示回数つまりインプレッションを稼ぐことが必須になる。沢山表示された中で、記事を読んでくれる、記事から商品の購入に至ってくれる数は入れ子式に少なくなっていく。だから、とにかく最初の母数を増やすのだ。これがSEO対策である。

小説家の場合、それはない。代わりにタイトルや煽り文、表紙などの装丁、web小説ならタグなどが似た役割を果たす。
これはSEO対策の「露出」とは少し違い、読者が手に取るための直接的な釣り針である(タグはSEO対策に近いかなぁ)。
ただし、これらの仕事は、商業出版であれば編集者の役割だ。小説家はとにかく物語を紡ぐことが仕事になる。

小説における「読者」の目

「読者の目を持て」――推敲の際に必須となる言葉だ。

小説には読者がいる。いや、正しく言えば「公表するならば読者がいる」。公表するなら読者に伝わることは大前提だ。時々不可解さやパワーで読者を翻弄する作品もあるにはあるけれど、大多数の小説は物語を「伝える」ためにある。
だから、推敲作業では「ちゃんと情報は過不足なく出ているか?」「言葉の使用は適切か?」「読者の認識と齟齬はないか?」などなどの対読者用の観点が必要になる。

公開して、誰かに読ませることを目標にした時点で、「伝える」ことが必須になるのだ。伝えるという視点を落としてしまうと、何を言っているのかわからない、独り善がりのつまらない作品になってしまう。
また、小説は文字媒体であるから、見せられる情報に限界がある。ある程度以上の細部は、時に読者の想像力による補完に頼らなくてはならない。むしろその「想像力を掻き立てる」ことを読者が楽しめる作品を良い作品と呼ぶこともある。

などといった理由から、小説も「読者との対話である」という言い方をされることがある。読者という対象を想定している限り、小説は書き手と読み手の相互作用によって成り立っていると言うのだ。

文章はコミュニケーションでなくてもよくない?

以上の話を踏まえた上で、それでも私は提案したい。文章ってコミュニケーションでなくてもよくない?

自分語りになるけれど、私は小学生の頃から暇があれば本を読み、息をするように書くことを身につけた。書いた作品を誰かに読ませたりはしない。ただ、「考えた物語を書き出すこと」が楽しかったのだ。
大人になる過程で、小説を書かなくなる時期は何度もあった。本を読むことも減った。それでも、人とのコミュニケーションに疲れ、メンタルが弱ってしまったとき、私は「書くこと」に戻って来た。

日記なんかはそうだろう。ストレス発散や認知行動療法みたいなもののひとつとして、ぐちゃぐちゃになった思考をひたすらノートに書き出すという手法もある。書くことによるアウトプットは、パンクしそうなメンタルを助けることに一役買う。

だから、「文章はコミュニケーションである」という前提を見たとき、クラクラしてしまった。すごく苦しくなった。文章というものの中にすら、コミュニケーションを求められる。それはとっても窮屈なことではないか。

「読まれるための文章」は存在する。それと同じくらい、「自分のためだけの文章」があってもいいのではないか。

そんなことを思ったのだ。

誰かを救うための文章

繰り返しになるが、冒頭で引き合いに出した記事の作者さんは「読まれる」ための文章を書いていた。私が商業作家を目指している限り、私も「読まれる」ための文章を書かなければならない。もちろん、この記事だって読者を想定している。「読まれる」ための文章だ。

読まれるための文章は必要不可欠だ。
文章は大切なコミュニケーションのツールのひとつであり、さらにそれを商売に活用するのなら、作者と読者の相互作用はより重要視される。ていうか、実際に文字はコミュニケーションのための誕生したツールである。

それでも。
私は「コミュニケーションではない文章」の存在を認めていきたい。大事にしたい。
コミュニケーションに苦しみ、コミュニケーションから逃げた者として、文章の包容力に誰よりも感謝しているから。

読む側だってそうなんじゃないか。
エッセイでも小説でも、なんでもいい。コミュニケーションから逃げ、ただ紡がれた世界に没頭したい。それによって救われた瞬間があるのではないか。そのために読んだ文章にすら「読者と作者の対話」を求められるなんて、窮屈この上ないと思わないか。

プロを目指しているけれども、おそらく私は死ぬまでアマチュア作家だ。自分のために文章を書いている。自分が救われるために、文章を書いている。
その自分のための文章が、物語が、たまたま同じ痛みを持った人のところに届き、読まれればいいなと思う。それは「読まれたい」という欲望とは違って、「届いたんだ、へぇ~ラッキー✌」くらいの消極的な願望だ。

そんな甘い考えだからまだデビューできてないんでしょ。そう言われるとぐうの音もでないけど。でも、だけど、文章を武器に生きる者だからこそ、文章の存在の多様さを想うのだ。

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