モノが増えると、その土地での暮らしに根が張られてゆく。

減らすはずだったモノが、いつの間にか増えている。

ノンカフェインのインスタントコーヒーで作ったカフェオレを飲みながら、ふと部屋を見渡して思った。部屋が大いに荒れているというわけではない。むしろ、いつもより片付いている。

例えば、家具や家電みたいな大きなモノが増えたわけではない。もっと細々としたモノ、日用品のストックとかガチャガチャでとったフィギュアとか、数週間前に新しく我が家へ迎えたサボテンなんかが増えている。

デスクの前の壁にはメモが書かれた付箋が貼り付けてある。無性に剥ぎ取りたい。剥げば良いだけの話なのだが。

スマートフォンの調子がよろしくなくて、下見にと覗いた家電量販店でもらったパンフレットが、クリアファイルに入ったままになっている。捨てたい。スマートフォンは買い替えるけれど、パンフレットは要らない。要らないのに捨てられずにいる。

モノがある暮らしは落ち着く。なさすぎるのは、壁がない部屋に居るみたいで落ち着かない。モノがあると、守られているような気持ちになる。囲まれているって、安心するのかもしれない。

けれども、わたしはときどきモノがある生活を捨てたくなる。なぜだろうと考えた。わたしには生きてゆく覚悟がないからだろう、そう思った。

これはわたしの個人的な感覚なのだが、モノが増えることと、その土地での暮らしに根を張ることはほぼ同じなのである。わたしは、今暮らしている金沢という土地で、地に足を立てて生活を送る覚悟ができていない。

毎日、ふわふわと宙に浮いて生きている。毎日、どうしてここに居るのだろうと思いながら、バスの窓から金沢の街を眺めている。

矛盾しているだろうか。モノが増えているのなら、少なくとも今は、金沢で生きていこうとしているのではなかろうか。

体は自分が意識していなくても生きようとする。けれども心は、体と反対方向を向いている。だからときどき、体と心の綱引きに耐えられないとその場に蹲ってしまうことがある。

体は生きようとして、これから一緒に暮らそうとサボテンに手を伸ばした。可愛らしいと思ったし、連れて帰りたいと思ったのも本当。同時に、この可愛らしいサボテンに恐怖を覚えたのも本当。怖かった。わたしにサボテンを連れて帰る権利などあるだろうか。そんなことを思いながら、右手でそっと小さな鉢を持ち上げた。

金沢だから、ということではないと思う。正直なところ、金沢という場所に対して色々とこみ上げる複雑な気持ちはあるのだけれど、きっとわたしはどこへ行っても、地に足を着けて生きることがむずかしい。このままの状態では、きっといつまでも、どこへ行っても空中を彷徨ったままだなあ。


語弊があるような、自分の気持ちをあまり正確に言葉にできていないような、そんな気がするのだけれど今日はここまで。また、続きはいつか。


最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。