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スーパーの店員さんになりたい。

人によっては大したことない出来事も、自分にとっては身体が呼吸の仕方を忘れてしまうような、息苦しくてたまらない出来事になってしまうことがある。2020年8月26日のわたしは、明日、アルバイトに行きたくない。


職場で厄介な出来事があったからなのか、他人の目が怖く感じてしまうような日が続いているからなのか、なんとなく行きたくないなあと思っているだけなのか。ただはっきりと分かっていることは、明日アルバイトに行くことを考えると呼吸が苦しくなるということだ。

もしかしたら、アルバイトに行かなくても呼吸は苦しいままかもしれない。ここ数日、淡々と落ち着いて生活しているようで、心はどこかチクチクしている。

明日になればケロッとしているだろうか。今日だけの、気まぐれな気持ちだろうか。心と身体がずっしりと重たくて、他人と関わることで揺れ動く自分の気持ちにいちいち疲れる。信頼しているはずの人の言葉に、トゲを感じてしまう自分が情けない。

刺激が強い外の世界から身を守りたい。怖がってシェルターからおしりだけ見せているカメみたいに。


ちょっとこの状態はよろしくないと思い、気分転換に近所のスーパーへ果物を買いに行くことにした。何かすっきりしたものを口にしたら、すこし呼吸が楽になるような気がしたからだ。

お会計をしてくれたのは、いつも物腰のやわらかい接客をしてくれる店員さんだった。マスクで顔の半分が隠れていても、目から穏やかさが伝わってくるような、そんな店員さんだ。その穏やかさに、なんだか救われた。

仕事だから、人当たりよく見えるだけかもしれない。それでもいいと思った。それだからいいと思った。仕事をしているときと仕事から離れたとき、人は別の顔をしているはずだ。そうやって無意識か意識的か、バランスをとって生きている。

それは、別の言い方をすれば二面性があるとも言えるかもしれないが、いわゆる他人にしか見せない仕事をしているときの顔に、他人はうれしくなったり気分がわるくなったりする。

至極あたり前のことなのだけれど、そういう誰かの”仕事顔”に救われることがある。本人の気付かないところで、今日のわたしみたいに誰かが救われている。わたしもあのスーパーの店員さんのように、穏やかな仕事顔で仕事をしたい。

家に帰ってきてnoteを書きながら、まだ気持ちは落ち着いてはいない。明日が来なければいいのにと、いつにも増して思う。高校生の頃は、それでときどきずる休みをしていたことを思い出す。学校に連絡をしてから、次の日の授業が理解できなくなってしまうのではないかと不安になり、結局せっかくの休みを存分に楽しむことができなかった。


物腰のやわらかいスーパーの店員さんに接客してもらったからと言って、他人の気持ちがほっとするのは一瞬だけだ。けれど、その一瞬の出来事があったから、こうしてわたしはnoteを書いている。

そういう一瞬だけの出来事を、見逃さないようにしたい。そういう一瞬をどこかで誰かが感じられるように、わたしはわたしの在り方を考えたい。


最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。