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今日のわたしに。

noteが書けなくなったとき、わたしは、今日の自分に何と言いたいかを考える。わたしが今日欲しい言葉を、noteを借りて自分に届ける。

今年の6月からnoteをはじめて、今日まで毎日投稿してきたわけではない。けれど、わたしにとって確実に、自分自身を整理する場所になっている。noteが一つの依存先になっている。


依存先になっているというのは、わたしがnoteに頼っているということだ。公開しているので、誰かの目に留まるかもしれない状態で、自分自身の整理のためにnoteを使っている。noteに載せる文章を考えながら、以前から心の中でモヤモヤしていることやその日の自分の心の状態を、なぜそうなったのかと考える。


そういう文章に、スキをつけていただけるのはとても嬉しい。その人がスキをつけた理由はわたしには分からないけれど、自分が発信したものになにかしらのリアクションがあるのは、単純に嬉しい。嬉しいけれど、同時に不安になる。



わたしには語れるものが何もない。これが出来ますと言えるほど、仕事を長く続けては来られなかったし、もちろん何か才能があるわけでもない。言葉を扱いたい、文章を書きたいと思っても、知識や論理的な思考能力は低い。わたしのこれまでの生き方と同じように、これでいいのかと迷いながら、noteに投稿する。とても怖い。それでもその日の文章を書き終えたあとは、なんとなくすっきりする。



気持ちとしては自分に向けて書いているnoteだけれど、本当に自分のためだけなら、公開なんてしていない。わたしは日々自分が思ったことや感じたことを通して、本当は何かを発信したいのだと思う。わたしに何かあるとするなら、プロフィールにも書いたように、これまでわたしが生きてきた環境や自分自身の体調の変化、そこからどう命拾いして今に至るのかという体験談だ。その中で感じたたくさんの疑問と、生きづらさを抱えた人間がこれから先も生きていくときに、何が必要なのかという問い。答えは一つではないから、その人だけの答えを見つけなければならない。


自分ひとりで答えを探すのは孤独な作業だ。何かに頼らずにはいられない。「自分次第だよ」と何度も言われてきた。しんどいときに欲しい言葉は、もう分かりきったその言葉ではなかった。向かう先が真っ暗なトンネルの中で、どうしたら足元が明るくなるのか、残っている食糧でどう食いつないでいこうか、そういうことを一緒に歩いて考えてくれる存在が必要だった。


依存することはいけないことだと思って生きてきた。人にも物にも、実態がない何かにも、人はどこかで依存しながら生きている。それは決して悪いことではない。必要なのは、依存先をその一つだけにしないこと、依存先をいくつか作ることだと自分の体験から学んだ。わたしはまだ依存先が足りない。足りないから、増やす作業をする。


自立するということは、なにもかもを自分ひとりで解決することではない。上手に人に頼れるようになること、それが本当の意味での自立だと思う。
障害があるから何もできないということはない。人に上手に頼る、それができると生活の幅は大きく広がる。障害者を抱える家族のひとりとして、そしてわたし自身の体験から、そう感じることはたくさんある。


大人として生きていくのは本当に難しい。心と身体がつり合っていない、そんな感覚がもう何年も続いている。いい加減楽に生きたいと思うけれど、そんな日は来ないのかもしれない。それでも今よりもうすこし、生きづらさが軽くなって欲しい。だからnoteに書いている。発信にすらなっていないかもしれないけれど、障害者とか健常者とか関係なく、その人の生きやすさがどこにあるのかを考える何かにつながって欲しいと、心のどこかで思ってしまっている。



一年前のちょうど今頃、当時毎朝使っていたバス停で、障害を持っているでだろう人が毎朝ひとりでバスを待っていた。時々大声で叫び、バス停の壁を傘で何度も叩いたりする。それでも毎朝ひとりで、同じ時間にバスに乗り、どこかへ向かっている。
すごいと思った。その人も、その人を毎朝送り出す家族も(家族に送り出されているかは分からないけれど)。その光景に、なんだか心が動いたことを思い出した。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。