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逃げ続けるのも、それはそれで。

自分には何もないということから目を背けたくて、そういう自分に気が付かないフリをする。何度「人の数だけ生き方がある」と自分に言い聞かせても、今の自分に到底満足できなくて、いっそのこと全てを投げ捨ててしまいたいと思うことがある。自分の心は、他人の心より厄介だ。心を持たない何かになりたいと時々思う。


何度言葉を並べても、4行目くらいで手が止まってしまう。自分で始めたnoteという場所さえ、手放してしまいそうで怖くなった。
かつて命を救って頂いた方に言われた言葉を思い出した。

「逃げちゃだめだよ」

自分の弱さを目の当たりにしたとき、今までのような逃げ方ばかりを繰り返してはいけない。消えてしまいたい、そう考える前にできることはないのか。そういう意味合いでその人は真剣な目でわたしに言ったのだと思う。
逃げるなというのは、真正面から戦えと言うことではない。〈弱い自分〉を無視するな、そういうことだと思う。時間が経った今だから思えるけれど、当時のわたしにとって「逃げるな」という言葉はあまりに直球すぎた。

例えば対人関係でうまくいかないことがあると、わたしは自分の気持ちに蓋をしてしまうことが度々あった。いまでもそういう一面がある。自分で自分に蓋をして、行き場所のなくなった気持ちを別の形で現してしまう。それは自分を守るための代償行為。自傷行為と言われるものは、何かの代償行為でもある。


リストカットをしても腕に傷がつくだけで、問題が解決する訳ではない。腕の傷一本治ったら心の傷がひとつ消える。そういうことにはならないと、自傷行為をしている本人がおそらく痛いほど理解している。なのに同じことを何度も繰り返してしまう。傍から見れば理解しにくいことだから、何度も繰り返せば信頼を失うことだってある。「次は絶対にしない」そう約束できるのは、それをしなくてももう大丈夫と自分で思える何かが見つかったときだ。傷付けることで自分を守れるのは、ほんの一時だけなのかもしれない。

油断をすると簡単にそっちに向かってしまいそうになる。わかっているのに、気付いたときには止められない。でもその後に、「後悔」の二文字が頭に浮かぶか浮かばないか、それだけでも今自分が真っ暗なトンネルのどの辺りにいるのかを把握する目安にはなる。

ここ数年で、大分冷静に自分の状況を理解できるようになってきたと思う。だから尚更、逃げたくなるのかもしれない。どこまで自分と向き合えば、わたしはわたしを苦しめる色んなことから、解放される日が来るのだろうか。楽しいことだけを感じて生きるのは難しい。楽しいことの裏には悲しいことがある。オセロの駒みたいに、どちらの面も真っ白(もしくは真っ黒)なんていうことはないのだ。

自分が納得しないと前に進めない、わたしの性格を自分で理解しているつもりでも、誰かに答えを求めたくなるときがある。答えは誰も知らないのに、不安だから教えて欲しい。なんでこうなってしまったのだろうと過去を振り返って、自分が歩いてきた道の間違い探しをしてしまう。他の人と、何が違ったのだろう。何がいけなかったのだろう。どうしてこんなに生きづらいのだろう。自分の中に〈悔しい〉と〈むかつく〉という感情があることに気付きながら、すこし泣いた。

あまり他人には知られたくない感情もある。わたしは自分の中の〈悔しい〉と〈むかつく〉を、できればあまり表に出したくない。一度その存在に気付いてしまうと、簡単にはその感情が落ち着いてくれないから。


自分の心はなかなか思い通りに操作できない。心の中は見えないだけで、色んな感情で溢れている。他人には知られたくない感情だってあるはずだ。口にはできないような汚い言葉が沢山ある。
心があるから他人とぶつかり、人間関係に悩み、自分自身を見失う。もういっそ、人間なんか辞めて心なんて持たないものに生まれ変わりたいと思ったことがあるのは、わたしだけではないかもしれない。それでも人間に生まれて心を持ったから、きれいなものを見てきれいと言えるし、映画を観れば涙がこぼれる。


感じてはいけない気持ちはないはずで、それでも表に出しても問題のないものとそうでないものがある。振り回されるのはだいたい、自分の意志とは無関係の、でも確かに自分が感じている感情だ。

先日お世話になっているある人に言われた。

「愚痴だって言っていいと思うよ、でも信頼している人の前でね」

誰かの愚痴のはけ口に自分がなることは結構ある。何度も聞けばうんざりすることもあるけれど、愚痴を言ってはいけないと思っている訳ではない。むしろ吐き出す相手にわたしを選んでくれたことに嬉しく思うこともある。もちろん相手との関係性や程度はあるけれど。


ため込むより全部吐き出して、きれいな空気を吸った方がすっきりするかもしれないと、その人は言った。自分の気持ちを整理してからでないと動けないわたしの性格を知っているから、直接的ではない言い方で、わたしがわたしの気持ちをどう整理するか自分で選べる状態にしてくれたのかもしれない。

誰の前でも言っていい訳ではないし、愚痴こそ話す相手を厳選する必要がある。どんなに格好いいことを言っている人も、どこかで愚痴っている。「あの人のああいうところ、気に食わないなあ」と、その人がいないところで悪口を言っているかもしれない。子どもより大人の方がずっとずるい。そうやってずるくならないと、バランスが取れなくなってしまうのかもしれない。


自分との付き合い方は、他人よりも難しい。自分のことを、自分が一番理解できない。だから逃げ出したくなる。だめな自分を見たくないから、そのときだけでも見なくて済む方法を選んでしまいたくなる。どんなに素敵な人がわたしのダメなところが良いと言ってくれたとしても、わたしがダメなわたしの存在を認めない限り、わたしはわたしから逃げ続ける。だったら気が済むまで逃げてみようか。逃げきれるほどの体力はもう残ってないのだから。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。