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小説 夏の思い出(第四話)

第四話


鬱の方向性


二週間が経つ頃、美恵子が詠んだ俳句を先生が理解していないことがあっ

た。

父の死に関する俳句であった。しかし、これは違うんです、と正しいことを

言おうとして、皆が暗い気持ちになり場が沈むことが予期され、言えなかっ

た。

美恵子は、俳句の先生でありながら、なぜそんなこともわからないのだろう

か、と悲しくなった。

父は本当に亡くなって、それを句に詠んだのだから。

そして俳句の全ての講座が終わった。

父が死んだとき、鬱の最中だった美恵子は俳句の会に交わったり、散歩した

り、少しは外出できるようになっていたのだが、まだ霧の中にいるように、

気持ちは晴れないままであった。それだから、自ら藁にもすがる思いで俳句

の会に参加したのだ。突破口になるかもしれないというわずかな期待ととも

に。

 
 ーーそのころは、俳句以外にも何かで楽しもうとしていた時期であった。鬱になると、何かにつけて楽しめなくなるから、余計に色々試さざるを得なくなる。楽しめることを求めてーー

美恵子は一人、デパートの遊興施設のなかで子どものように無為に、しかし

自由な時を過ごしていた。ひとしきり、遊び終わった後、さあ、帰ろうと、

ぼうっとした頭のまま、下りのエスカレーターにのりかけたとき、携帯電話

の着信が鳴った。しかし、すぐに電源がなくなった。
 
母からの着信を折り返そうと、一階の公衆電話に急ぎ、母に電話をかけ

たのだった。


・・「じいちゃんが死んだ。」「え、嘘やろ」何度も言った。

「ボランティアの最中、病院にすぐに運ばれたけど、すぐ心臓が止まっ

て。」


美恵子の父はがんで半年前に入院していたが、転移が考えられるため、腎臓

の片方を手術で取っていた。ただ退院後は、経過もよく、ボランティアに復

帰していたこともあり、家族にとっては元気になったと安心していた矢先、

大動脈破裂で亡くなったのだった。


俳句についていえば、結局、他人というものは、自分を理解してくれない。

透明な壁のようなものがあり、その中に球形の粘土に包まれた核が存在して

いる。それは見ようとしても見ることがかなわないからだ。

俳句のような、心情を「かけら」から何とか拾うような、そんな繊細な

文学においても、それを期待することはかなわない。

美恵子はそう思った。先生でさえ、人の心は掴めないものだ。

美恵子は俳句の会のメンバーにも、その日から、少し距離を感じた。

でも、もう終わりなのだ。講座は終わったから。

美恵子は父が死んだという、あまりに不意の不幸なできごとが降りかかった

ことにより、神も仏もあったものか、という気持ちになり、妙に自分で自分

を奮い立たせるような心持にもなったのであった。

しかし、直後には、パニックになった。整理がつかない心のまま、

心理的に悩みを相談できる地域の機関へ急いだ。それは、手前勝手かもし

れなかったが、父が死んだことで、これ以上に、鬱がひどくなって頭

がおかしくなるのではないか、と危惧していたのである。

だから、それを告げた。

すると、彼女はこう言ったのだった。「本当の鬱の人はそれさえ考えられな

いんですよ。」本当の鬱なら、その心配さえできないというのだ。

その瞬間また我に返った。わたしはまだ、だいじょうぶかも知れない。そう

美恵子は安堵したのだった。

そして父の死の影響から、毒を毒で制するというように、鬱がようやく明け

、これはもう、拾う神がいたかのようであるのだが、心身に負担の少ない働

き口が見つかってそこから電話があった。美恵子は立ち直れた。このような

きっかけで、鬱が治った。

ただ通夜、葬式その他の事務的なことは、美恵子にはまだ無理だった。

鬱ではない希恵が中心に行った。

美恵子の母が、香典泥棒にあったなど、朝の五時に起きて美恵子を起こし、

取り乱したことはあったが、単に香典を家の中でどこに置いたか、忘れて

いただけであった。

伴侶がなくなったことにより、亡くなった直後は、心ここにあらずだったよ

うだった。カブトムシも飼っていたが、それが美恵子の父の死んだ直後に

雄雌二匹とも死んだとき、

おいおいと泣いて、なんでこんなに悪いことが重なるのだ、としきりに、

いうのだった。

美恵子は実家から家に戻った。

そして、普段みないような、陰鬱なドラマなどを見ると、寒気がするような

不安感がまだ何回か襲い、人と話すのも辛いこともあった。

しかし恵まれた、優しい性格の周りの人々に助けられ、環境をかえたことに

より、徐々に生活のペースが戻った。

また、陶芸をして土を触った。不思議なことだが、自然にわらい顔のお地蔵

様のようなものが土から手に伝わるように現れたのには、驚いた。自ら光と

明るさを求める心から鬱明けが始まるのだろう。

その後、絵を習いに五駅先のアトリエまで月に二度通い始めることにした。

そこは、緑豊かな広い庭があり、レンガや白塗りの壁の、南仏風の店や

建物が集まって、何か小さな村をイメージしたようなエリアだった。

レストラン、ピザ窯、雑貨店、そして家具や照明などを売る店がいくつか入

っているその一角に、画家がスタジオを借りて教えていた。

ここで約二年間、デッサンを習った。絵の先生はざっくばらんな明るい性格

の先生だった。前歯を全部直してもらったの、と言いながら、

大声でわははと笑う、生徒に好かれる先生だった。美恵子は絵などに縁がな

かった。

しかし、だからこそ、新たなことを、それも芸術に関することをかじる

ことが、鬱の寛解に非常に良かった。

そのころは自分の心を相手が理解しているか、どうか、その確かさにはもう

こだわらなくなっていた。

もちろん、先生の性格も俳句の先生とは違っていたのもある。

鬱が治るヒントは、少し社会に交わりながら、穏やかで優しく明るい人々が

いる環境に自分のいる環境を変化させることであった。

趣味という自由な場を居場所にして、安心できる場を自ら探索することがで

きたなら、自然に治っていくものだった。反対に鬱になった原因というのは

義実家との頻繁なつきあい、幼稚園の母親たちとのうわべだけの煩わしい人

間関係、子育ての多忙による心身の疲弊、であったのだから、それは確かな

ことなのである。美恵子にとって、いや、普遍的なことなのかもしれない

が、自らを安心して表現できる友人と、自らを受け入れてくれる場という

ものが常にあることが、鬱から逃げることができる道なのであった。美恵子

は、父の最期の言葉を思い出した。

「美恵子、なんでも、好きなことをしたらいいんやで。」鬱のさなかであっ

た美恵子にはとても嬉しい言葉だった。いまだに父親のことを思い出す、

美恵子にとっては大切な人だったのだ。

(第六話につづく)

 
 
 

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