見出し画像

記録〜自信〜

いつぶりだろう?
少年の事。
二ヶ月ぶりかな?

早いもので、今年も暮れていく。

一昨日の夕方、帰省する少年を児相まで夫が送って行った。
家から車が離れる時に可愛らしく何度か手を振ってくれた。

後から夫曰く、
「おれにだったらそんなに振ってくれんだろうね」
私曰く、
「うん、そうだろうね」
多少なりとも少年の私に対しての親密感は夫より厚いらしい。

ここから一週間は少年のいない我が家である。
正直に言おう。
気楽〜!
里親業務としての責任をしばらく放り出せる。

三年後に一人の人間を自立をさせる目標に向かって、今から準備出来ることは何気に沢山ある。精神的にも実質的にも。
それのまず一つの大きな関門が高校受験だが、それが間近に迫っている。

少年が帰省から戻り、冬休みが明けると、いよいよ色んなことが動き出す。

言ってみれば、この夫婦二人だけの静かな年末年始は嵐の前の静けさに違いない。
息子も研修先からは帰省しないとのこと。


少年の中三の二学期は穏やかに過ぎた…と書きたいところだが、学校からの電話で発覚したが、彼の幼さ故のコミュニケーション不全(という事にしよう)から問題が起こり、対応、謝罪する騒ぎが一度あった。そしてその後の静かで重い私からの説教。

その件以外では、逆に私から学校に電話で問い合わせた事が一つある。

数年前から生徒一人に一台あてがわれる事になったタブレット。文科省のGIGAスクール構想という名の、如何にも先鋭的なイメージの教育プラン。
余談だが、国際ジャーナリストの堤未果さんの著書「デジタル.ファシズム」の最終章にも重々しく記してある、グローバリズムの利権ビジネスがとうとう悲願の教育現場にやってきた…という残念な見方しかない。
若い内はネットなんかより優先すべき学習があると思うし。

例えば、将来に渡り生きるために必要な「料理」は五教科並みに時間を増やし、ホスピタリティを養える「介護技術」なんかは義務教育の必須科目にすれば良いと個人的には思っている(私が介護職員初任者研修を受けて感じた)。時間的にも家庭での体験を昔より圧倒的に減らさざるを得ない現代、もっと「生活」に役立つ事を若いうちから学校で学べないものか。

ともかくも、支給されたタブレットを持ち帰った日に少年はなんだかコソコソしている様子があるのが気になっていた。
フィルターがかかっているとはいえ、ある程度の検索機能は使えるため、本当に勉強にそれを使っているのかどうかさえ分からない。通信を通して監視(嫌な言葉)されていて規制がかかるとはいえ不透明で嫌な感覚は募る。
もやもやしているよりは…と、学校に問い合わせた。

「受験前の大事な時に、この様なものを与えて、かえって勉強の妨げになりませんか?」
「保護者のチェックが必要ならともかく、自由に使わせる事に疑問があります」
…と丁寧に穏やかにお伝えした。

想像だが、学校でさえまだこの仕組みに手探りであり、どの様にタブレットを使わせて、どの様に学習の成果に繋げるかなどは、はっきりと分かっていないのではと思う。

私の電話に対して学校(教頭)からは、タブレットで効果的に学習出来る旨を説明され、ご理解下さいとの事。
ご意見は有難く頂戴します…云々カンヌン。終了。

きっと私はモンスターペアレント(死語?)のリスト入りしてると思う(笑)。
公が推奨する事に疑問の目を向けて、必要なら声をあげる。コロナ禍で目覚めた。
息子の子育て時代にはこんな行動は決してしなかったと思う。

結局、タブレットについて私がごちゃごちゃ言うものだから、少年は「もう持って帰らない」と言った。すまんね…。

でもね。
タブレットなんて無くても勉強は出来る筈だからね。

高校へ入ると、タブレットは購入義務になる(家庭によっては貸与)。
また家庭での余計な出費が増える。


少年は基本、家では静かである。

私の小言にはしおらしく頷き、
指示された用事は渋々行い、
必要なければ自分からは喋らず、
首を下に折り曲げながら黙々と食べ、
扉はそろそろと開け、
廊下は下を向きながら気配を殺して?歩く。
そのくせ人の顔を目で追いかける。

自分はここにいる!
ではなく、自分はいないよ…と、気配を敢えて消している様で気の毒になる。
少年がいる事に慣れてきた昨今、それがやけに気になる様になった。

なんでだろう?

我々夫婦に対して萎縮している?
大人に対峙する事がそもそも苦手?
単に遠慮している?

それだけではなく、
根本的に自分への肯定感が薄く、自信がないのかなという考えに行き着く。

自分がどういう時にどういう行動をとったら良いのか自信がなく、いつも大人の顔を伺い見る幼い子供そのもの。

それが彼なのかな。
私の勝手な少年への偏見かもしれないが。

いつか自信を付けて堂々と前を向け!
そのためにはもっと視野を広げて物事をより深く考える人にならないとね。
誰にとってもそれが難しいのだけれど。



少年が帰省する時に、手を振りながら見せた子供っぽい笑顔がちょっと微笑ましかった。

試行錯誤の少年育ての日々が少し報われたような気がした。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?