友人の夫の悲報が入って想う事
夜分に友人の夫の悲報が入った。
全く想定してない人の悲報。
彼女は今どんな気持ちで過ごしているんだろう
想像を絶する空想で
心が落ちかなくなった。
私は死別に敏感だ。
死という離別は
二度と暖かな体や会話が出来なくなり
火葬という肉体との別れの後は
思い出という想像の世界でしか
本人と出会えなくなる。
私の大切な人との死別は
5歳ぐらいだった。
大好きな祖父母に
最後の別れを言いなさいと
横たわる体に触れた時には
身体は冷たく冷え切っていた。
優しい声も
思いやりのある呼びかけもされず
当時の私には理解できなかった。
今思い出しても
あの悲しさは
私の中に染み込んでいて
すぐに涙が出てくる。
当時の子供の自分の気持ちのどこを探しても、母が教えてくれた思い出の中に被祖父が生きていて、私にひたすら優しかった記憶が有り難く残っているだけだ。
それほどに、私にとっての死は強烈なものだった。
次に体験した死は祖母。
祖母は最後の命の時間を
最大限に私に与えてくれた。
難病を患い
じわじわと体の自由を奪われ
看取りの間際には死にたいと筆記するほどの延命処置を乗り越えてこの世を旅立つのを当時は見守ることしか出来なかった。
それでも、生き抜いた姿は美しく
人の人生の終わり方は様々な姿があると知った。
その次に被祖母が旅立った。
認知症が進行し、最後は私が会っても誰か思い出してもらえなかったが、ありがとう、お願いします、と同じ単語を繰り返していた。長年生きぬいて、認知症を患っても他者を尊重しながら過ごす姿に感慨深い姿勢を見習った。
祖父が旅立った時、戦争での捕虜の体験や、警察官時代、その後も保護司などの活躍があったことを当時は知らず、亡くなった後に活躍を知った。天皇万歳時代の価値観が理解できずに口論した日々が懐かしいが、そんな過酷な日本を生き抜いて今の平和がある事に心から感謝している。
父方の祖母がその次に亡くなったが、遠方にいるため、葬儀にしか参列できず、父が母を亡くした寂しさで涙した時に共感して一緒に泣いた。
私は第三子を死産している。
子供の様子を自らエコーを当てて成長を見守っていたが、ある時異変に気がついた。20週で今の医療では助からない時期に見つけた全身の浮腫み。助かる確率は少ないことを知りながら、自分の胎内で亡くなる息子の死を受容した。
死産し、その襲いかかる悲しみに折り合いをつけて死とは生と隣り合わせだということを肌で感じ、生きる時間の意味を見出した。
私には幸いにも多くの死と向き合い
自身の生きるとは何かを長い時間をかけて悟った。
だからこそ、誰かの死を知るたびにこれまでの感情が再体験するのと同時に、今何ができるかを意識する。
友人の心の痛みを想像するだけで、胸が張り裂けそうになるが、今その瞬間を彼女が抱えていると思うと居た堪れなくなる。
告別式に参列しようと思うが、
きっと話をできる状態ではないと思うし、子供たちの姿が目に浮かぶ。
死は、生きとし生けるもの全てに訪れる宿命。
今日もそれを忘れずに
祈りながら眠りにつく
彼女の悲しみが
1日も早く
癒されて平穏を感じられますように
祈りが届きますように
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