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幸せはかくも相対的

人は見た目が9割

100万部売れた本のタイトルだ。

わたしはこの本を読んでいないので「見た目」が何を指す言葉として用いられているのかは存じ上げない。

しかし見た目が重要だという意見には賛成する。
より精緻な表現をすれば「見かけ」の重要さについて少しだけ書きたい。
9割とかどうとかいうお話ではなく傍目から見た姿の大切さについて思うところがある。

幸せは相対的なものだ

全部ではなくとも大部分がそうではないだろうか。

10秒間で思い付くレベルでわたしが幸せを感じる"瞬間"を挙げてみる。

・パン屋の香りをかぐ時
・おいしいご飯を食べている時
・大きい湯船でくつろぐ時
・フカフカの寝具に入る時

みなさんはどうだろうか。

パッと思い付くのは上記のようにどちらかというと絶対的な幸せではないだろうか。
標題と異なる結果だ。

では逆に不幸な"瞬間"を考えてみて欲しい。

・家具に足をぶつけた時
・15分に一本の電車をちょうど逃した時(人によっては1時間かもしれないのは承知)
・料理を焦がしてしまった時

やはり相対的というよりは絶対的な出来事に思える。
標題と異なる結果だ。

次にスケールを大きくしてみる。本当に絶望的な不幸とはどんな状態だろうか。

・仕事に就けず将来の見通しがない状態?
・さらに貧困に苦しみ娯楽も何もない生活?
・誰からも愛されず孤独な生活?

このパターンを列挙すると少し相対的なものが増えてくるように思える。
仕事に就けないことに不幸性があるのは仕事に就いている人が居るからだし、自らが貧困に苦しんでるように感じるのはより裕福な人と比較してしまうからだ。愛されないという感覚も"より愛されているように見える誰か"との比較から来たものではないだろうか。

改めて貧困一つ取ってみても、世界という基準からすれば日本人はおよそ絶対的貧困には該当しない。そういう意味で相対的なスケールによって生じる不幸だ。

挙がっているのは全部極端な例だ。という批判は確かに真っ当だが安易でもある。

こうして考えてみると
わたし達が心底不幸だと思うことの多くは、他人と自分を比べてしまう、人間としての体質から来ている。

「絶対的に◯◯である」ことよりも
「××と比べて◯◯である」ことを快く思わない。理不尽に感じる。

無意識的な脳の活動だが誰しも思い当たる現象だ。

これらの感情が幸せの対極にあることは明らかであり
すなわち「幸せ」が相対的なものである証左となる。

標題の通りだ。

あなたにとっては当たり前、わたしにとっては夢のよう

先述の例を引っ張るならば
日本に住むわたし達のほとんどにとって屋根のある家で自由に電気・水道を使える生活は当たり前だ。そのこと自体に幸せを感じる機会はさほど多くない。
一方で地球上にはそれが当たり前でない人はたくさんいる。

にも関わらず我々日本人全員が幸せかと言うとそうではない。
つまり幸せの尺度は環境によって異なる。

よく聞く話として不妊治療をおこなっている方にとって他人の妊娠出産の知らせを聞くことが辛いというものがある。意識的なものでなく避けられない感情であろうと思う。気持ちは分かる。わたしもそんな風に思ってしまう日が来るかもしれない。
ある人の幸せが場合によってはまた別の人の不幸せを生むという例だ。

またつい先日、大変痛ましい事件があった。
事件を起こした犯人の供述の一部は以下の通りであった。

小田急線の通り魔事件記事より
「(被害者は)勝ち組の典型に見えた」
警察の取り調べに対し、「6年ほど前から幸せそうな女性を見ると殺してやりたいと思うようになった」などと語っているという◯◯容疑者。これほどの凶行に駆り立てた理由は一体何だったのだろうか。


考え方の是非を議論したいのではない。
現実としてこうした考えを持つ人が存在することを認識しなければならない。

実際わたしは昔から、それもかなり小さな頃からこのことを恐れて生きてきた。

「見た目」が幸せそうだと誰かに怨まれる"可能性"がある。

自分の身を守るためには「見た目」を不幸にするのがベターだ。そう考えて実践してきた。

わたしは自分自身の境遇を呪ったり理不尽に思ったりすることが多くあった。一方で相対的に自分より不幸せな人から"幸せ"だと思われることをいつも警戒してきた。

そのため少し良いことがあってもなるべく表出しないよう心がけている。できる限り「不幸せですよ」という"顔"をして生きてきた。

歪んだ考えだという自覚はあるが他者に与える不快感を最少にしたいという思いとターゲットになりたくないという思いの合わせ技でそうなってしまった。

始めの話に戻るがその人が幸せか不幸せかは誰にも分からない。だからこそ「見た目」の幸せ度によって判断されてしまう。

ただ友達と、恋人と仲良く会話しているだけ。
ただ子どもと散歩しているだけ。
ただ笑っているだけ。

本人は何の意図も無いそうした行動も「幸せの見せつけ」のように捉えてしまう人も実際にいる。

こうして人は見た目で判断されてしまう。
人間が幸せを相対的尺度で判断してしまうことの弊害かもしれない。

だから

わたしは相対的幸せの表出を防ぐべく外ではできるだけ笑わないし何なら不機嫌な顔を保つ。不幸に思われることで自分の、他者の身を守っているつもりだ。

他の人にもそうして欲しいという思いはまったくない。
いわゆる嫉妬心による恨み、逆恨みは何から生じるか分からないから相対的に幸せに見える行為を慎むことは身を守る手段の一つですよ。気をつけてくださいね。
というお話がしたかった。

この件に関し、幸せな人を襲うな。というムーブメントが起こっていることも知ってはいるが果たして本質は、被害を防ぐための手段は何なのだろうか。

泥棒の対策として
・「盗みは悪いことだから辞めろ」と泥棒に言うのか
・「泥棒がいるから鍵をかけよう」と対策するのか
・「最近の泥棒はこういう手口ですよ」と広めるのか

すべて正解であるが現実的な手段を取ってみんなが幸せに生きられるようにして欲しい。
わたしならそうするという話。

防衛のために不幸を装うなんてそれこそ不幸だ。という人もいる。そう思う人はそれでもまったく問題ない。
ご自由にどうぞ。

恨まれたくないし妬みたくないわたしは幸せを見ないように、出さないようにをモットーにしている。
残念な生き方だと思われるだろう。
別にそれで良し。

なにせ幸せは相対的なものである以前にパーソナルなものだから。

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